以下は、独修してみようとされる方のために、井上希道著『輝かしき人類のために』から抜粋加筆編集して坐禅の仕方のポイントを参考までにまとめたものです。
修行には極めて高い精度が要求されます。ほんの些細なズレが決定的な方向違いを生じてしまうからです。自分免許ほど危険なものはないことを良く承知しておいて頂いて、あなたの菩提心に供します。

Q 坐禅は何のためにするのでしょうか?
A 坐禅は悟るためにするのです。

Q 悟りとは何でしょうか? 
A それは心の癖を取り、真実の世界である「今」に目覚めることです。


Q 心の癖とは何でしょうか?
A それは眼耳鼻舌身意という道具が色声香味触法として働きますが過去の概念や感情が、即発的に誘発される、そのパターン化した回路が癖であり拘りの元なのです。この瞬間に於いてあらゆるイメージも勝手に現れて、それらによって心の全域が攪乱されていくのです。


Q どのようにすれば心の癖が取れるのでしょうか?
A 先ず、即発的に拡散し思念する癖を破るのですが、それにはその癖に逆らう事です。


Q 逆らうとはどうすることでしょうか? 
A 癖も一瞬の世界ですから、癖の出る以前の一瞬に着目するのです。つまり、眼耳鼻舌身意が色声香味触法と現成するに任せ切ることです。拡散する余地を与えないぎりぎりの一瞬に着目し続け、そこをずっと見失わない努力です。


Q とてもではないが、あっと言う間に雑念の世界へ落ちていて、そのようなことは絶対出来ないと思いますが?
A そもそも種を植えてすぐに収穫できるものはただの一つも無いのです。原因がなければ結果も有るはずが無いのです。結果が出てくるには時節因縁が必要なのです。努力という大地と、水や太陽や温度や、害虫から守り雑草を取って育てなければなりません。これが原因であり因縁であって、やがて時節が来れば自然に実がなり、時節が来れば熟し、時節が来れば自然に落ちる。皆努力なくしては有り得ぬ事です。祖師方も命がけでやられたのですからね。


Q 具体的にどのように修行すれば良いのですか?。
A 修行でもなんでも要点があります。如何に早く、誰でも確実に、楽に目的を達成する方が良いでしょう。悟るためには、拡散・雑念を収め切らなければなりません。今の瞬間に徹しなければなりません。そのために雑念を切り、瞬間への帰着努力を続けるしかないのです。それが坐禅当初の修行です。まさに癖の自己との戦いです。


Q その様に努力していくとどうなりますか?
A 具体的なステップは次のようになります。



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(1)悟りを得るということは釈尊の精神を得る事であり、仏法を体得する事です。心より清浄を願い、人類の誤れるを正し、皆の幸せを願う大きな心に目覚めなければなりません。そのために諸々の欲望を捨て、真実の道を得る大願心を神仏に誓い、祖師を深く尊崇敬愛し正師を求めることが第一です。

(2)正師に出会うことが出来たら、只教えのみを見て、師の学歴・容貌・行い・男女・年齢等視感覚的なものや聴覚的な一切を見ないことです。信が定まらないと進歩しないからです。発願を貫徹するには、聞思修より三摩地に入るとあるように、正師の教えを良く聞き、自分の理解の仕方が間違ってはいないかよく思惟して確認し、それから修行すれば間違うことはないので解脱することが出来るとある通りです。


(3)鮮明に瞬間を守り、雑念を払い、今を守る事が第一です。静かな部屋を選び、足が痛くならないように厚い座布団を用意します。


(4)坐り方に拘る必要はありません。道元禅師撰『普勧坐禅儀』等で説かれている通常の坐禅の仕方で良いし、あぐらでも正座でも良いのです。足を伸ばしても椅子でも構いません。体の調子によっては座ることさえ出来ない場合もありますが、心を解明するのには何ら支障はないのです。どのような姿勢であれ心は心であり、一瞬は一瞬です。しかし、身体を正すことは一瞬を見失わないための必要な緊張感を継続する最高の体位です。それだけが大切なのではありません。最も大切なのは、今を守ることです。


(5)手の組み方も法界定印に拘る必要はありません。膝の上に掌を上向き、或いは下向きにして置いておいても良いし、片方の手で反対の手を握り込んでも構いません。又、膝の上に棒などを置いて、それを握りしめても良いでしょう。とにかく一瞬を守りやすい方法を大切にすることです。


(6)目は通常の坐禅のように斜め下に視線を落としても良いし、閉じておいても構いません。ただ、最初は目は開いておいた方が、雑念が少ないでしょう。最初は目も大変疲れるものです。


(7)雑念・拡散の癖をとるために、一瞬の一息に成り切り成り切りします。《雑念を早く発見して、早く一息に帰る》のです。最初はそこに回りくどい手続きがいるかも知れません。癖との戦いはとても辛く苦しいものです。でも、絶対に退いてはならないのです。そこには本来の自己が早い救出を待っているからです。


(8)呼吸の仕方に何か特別な決まった方法があるのではありません。雑念を切り、今に帰着するためにあらゆる工夫・努力を試みるべきです。一般的には大きく深く鮮明に、つまり確信の呼吸をすることです。


(9)ここで注意すべきことは、イメージや数息観などを用いないことです。呼吸は本来自然にそうあらしめられているものですから、呼吸の事実に即し、呼吸は呼吸に任せて行けば良いのです。数息観のいけない理由は、数えるために余分な知性を認め用いているからです。イメージは観念現象であり想像空想の世界です。その様なイメージなど瞑想すると、絶対に悟ることは出来ないのです。


(10)一息に成り切らねばならないのは、呼吸は常に今ここにあり、しかも一瞬のものですから、一息に成り切ることは今に成り切ることに他ならないからです。


(11)偏り緊張を防ぎ、身心の流れを良くすることが大切です。そのためには《一息するごとに体を左右に捻る》事です。首も含めて大きくゆったりと捻り、後方の畳あるいは床を確実に見るようにしなさい。自動的に雑念は切られ、眠気を避け、体の健全な流れが得られます。


(12)坐禅中に体を捻るという動作を入れるのは、本来、人間は適度に動いているのが自然であり、身心の異常を防ぎ、鮮度の高い瞬間を守ることになるからです。 体が浮き上がるような錯覚とか畳の縁が光って見えるなど、魔境と言われる現象は一切問題にしないことです。身心は常にクリアーにしておくことが大切です。


(13)一息一息を完全に終わらせることが大切です。体を捻ることによって終わらせ、また新鮮な真新しい一息をするのです。そして一瞬一瞬を100分の1秒の精度でスライスするように鮮明に今の瞬間を守るのです。


(14)これを継続し、一呼吸に成り切って我を忘れ切るまで徹底すればよいのです。


(15)動作においては一切の速度を10分の1に落とすことです。


(16)間違えやすいのは、動作においても呼吸を守ろうとしてしまうことです。そうではなく、その場その場の動きの中心に心を置くようにするのです。歩く時には足の裏の感触、一足一足の足の動きに。食事の時には一箸一箸の手の動き、一噛み一噛みの口の動き、舌に生じる味わい。それを一つひとつゆっくりと明確に行い、一切の言葉もイメージも加えないことです。そしてそれらの動きの節目節目を確認することによって雑念を切り、今、しているその事に常に心があるよう努力をするのです。


(17)真剣な努力をしていれば、雑念を発見した瞬間に呼吸に帰ることができるようになります。こうなりますと苦しみはなくなり、如何なる念も瞬時に切ることが出来ますから坐禅がとても痛快になってきます。自分の体が急に軽くなって、手元が大変明らかになるのもこの頃からです。


(18)やがて拡散が治り、雑念が出ても着いて行かず放っておけるようになります。そして自分の行為している手元が極めて明らかになり、動作の一つひとつが尊く重々しいものとなります。


(19)やがて概念のない念、前後のない念が手に入ります。平等一元の安らかな世界が現れて来ます。後は徹するだけです。本当の修行は、即今底のみ。ただ瞬間々々のみ。


(20)本当にそのものに徹すると自己がなくなり、無我へと突入します。見聞覚知のその時の縁によって無我の消息を知らされます。これが空の体得です。涅槃であり悟りです。本当の今であり、過去が脱落し総ての拘りが起らない世界となります。知性の外に出たのです。


(21)これより悟後の修行です。悟りはそのまま巨大な信念となり力となって、その事が面前にはだかりますから本当の自由ではありません。悟りをも捨てる修行が大切なのです。どうするかというと、どこまでも自己を立てず、一瞬一瞬を練るのです。その物、その事に徹していくのです。


(22)悟りも法も落ちて大成します。大悟です。大真理は真理とすべきものもなく又真理で無いものもありません。ここに於いて大恩教主釈迦牟尼仏と同境界となり、天上天下唯我独尊となって世界を照し救済していくのです。


この力を持って限りある人生のままに、命の深遠悠久に任せて堂々と生死を楽しみ、人を救い世界を照して行くのです。それが道であり、本当の生涯であり、仏道だからです。