少林窟道場開山
  大顕隠老大師 略年譜

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文久三年(一八六三)一歳
四月二十二日、山口県都濃郡花岡に父片野與兵衛・母みちの五男として出生。兄弟は六人。


明治二年(一八六九)七歳
地蔵院石田慶蔵氏につき読書、習字、算術等を学ぶ。


三年 八歳
和歌を詠ず。


六年 一一歳
伯父の死を悲しみ漢詩を賦す。


一〇年 一五歳
飯田家の養子となる。(周防、下松、飯田柔平(浪花、適塾初代塾頭)の養子となる。)三田尻福田病院所属の医学校に入学。


一四年 一九歳
上京、東京大学に入学。


一八年 二三歳
優等第二番の席次で別課医学科を卒業。


一九年 二四歳
駒込病院医員として奉職中、流行を極めたコレラ病の治療に従事する。死亡率高く日夜治療に専念しているうち、人生の無常を感じるところとなる。偶々香川寛量老師の駒込龍光寺に巡錫せらるるに逢い、一日の説法が縁を結び、遂に職を辞して安芸国仏通寺に到り、寛量老師に解脱の本懐を求む。昼夜寝食を忘れ、猛修行の結果、遂に蝋八曉天、換骨脱体。師の印可を得。帰郷し養父の病を看護する。


二二年 二七歳
法友の言に従い、東京・道林寺に南天棒中原○州老師を訪ね、山上有山を了知し、師資の礼を執る。これより十数年全国諸方歴参と医術の研究に寧日なし。


二六年 三一歳
埼玉県羽生町にて医院を開業、町田氏の娘佳都子と結婚。


三〇年 三五歳
四月、静岡県島田市伝心寺の江湖会に西有穆山禅師大導師のため来山、直に随喜相見。この年、居を島田に移して禅師について洞門の宗風を探り秋野孝道、丘宗潭、筒井方外師等と道交する。


三一年 三六歳
南天棒老師の印可を受く。然るに、猶お自ら足れりとせず、先人の書に深く想を潜め、教相を調べ、語録を渉猟する。且つひそかに只管打坐を事とす。


三三年 三八歳
穆山禅師横浜に移られたため、自らも島田市の医院を閉鎖して上京、神田猿楽町に寓居。楠田病院長楠田謙三氏に請われて禅要を説く。


三五年 四〇歳
南天棒老師、西宮海清寺に移住。自らも西宮に移転開業する。独りいよいよ苦修錬行、親参実究するところ、偶々美濃の国虎渓山に在って、忽然として天地と融合し、古人我をあざむかざるの大真理を徹見、痛快に大悟大徹して、従前の悪智悪覚を一時に吐却す。これ実に南天棒印可後五年後の事に属す。かくて、古人も至り難きに至り得られたる大菩提心、只知る人ぞ知る。爾来、公案の頼むに足らざるを痛切に感じ、「南天棒、仏法夢にだも知らず」との大抱負のもとに、公案に罪はなけれども、その扱い方に弊害ありとし、これを打破すべく、居士身を以って、正法の誤られたるを是正し、昼夜兼行、只菩提心菩提心と、満身の法勇を鼓して、各地の禅会を巡錫す。為に時の人、菩提心居士と名づくるに至る。


三八年 四三歳
日露戦役中、出征遺家族の無料診療に従事する。


三九年 四四歳
九月上京、岡田自適邸に寓し、昼間は医術研究、夜間は居士大姉の鉗鎚に精励する。


四〇年 四五歳
雄香、管嶺和尚、海清寺に留錫、相見。同年十一月遷化せらる。


大正四年(1915) 五三歳
九月、『南天棒禅話』刊行される。


五年 五四歳
中館長風、岡田自適両居士より出家をすすめられる。


六年 五五歳
四月、西宮市西浜町に居を移すとともに医業を休止し、居士身をもって布教に従事する。大阪、東京、長野など多くの禅会に出て化を布く。北野玄峰禅師に親灸する。


七年 五六歳
安芸、禅林、敬峰和尚心印を伝ふ。故に遂翁-春叢-文常ー敬峰ー文敬なり。


九年 五八歳
十二月、『槐安国語提唱録』第一巻刊行される。


一一年 六〇歳
六月、終生私淑傾倒して止まなかった趙州老古仏にあやかり、福井県小浜発心寺にて剃髪出家。導師原田祖岳老師なり。


一二年 六一歳
四月より七月まで石川県大聖寺、全昌寺の禅会に後堂として助化。


一三年 六二歳
『無門関鑚燧』刊行される。


一四年 六三歳
四月、東京赤坂青山の龍谷寺に於いて立職。十二月、埼玉県秩父郡吉田町、東陽寺に住職。


一五年 六四歳
大阪府池田の大広寺に師家として聘せられる。


昭和二年(1927) 六五歳
二月、二條厚基公の創唱により貴族院議員中心の慧照会が設立され、議長官舎にて開講。鍋島直暎侯等熱心に参禅。二條公薨去してより鍋島侯菩提所麻布一本松、賢宗寺にて開講。

三月より東京本郷麟祥院に於ける大石大典居士を中心にした興禅護国会の師家として出講。碧巌録開講、来聴者数百人に及ぶ。

五月、曹洞宗師家認可。大阪池田、大広寺に於いて専門僧堂の施設を本願として朝参暮請をうけて化儀大いに行われる。

夏頃、某宮殿下を二條公大崎の私邸に御台臨を仰ぎ、更に二三氏をも会せしめ、興禅護国のご進講を聞こし召さるるやの御仰せを洩れ承りしも、不幸偶々二條公の薨去に際会し沙汰止みとなる。

『参同契・宝鏡三昧講話』刊行される。


三年 六六歳
『槐安国語提唱録』全七巻完結。


五年 六八歳
九月、大阪天王寺区真法院に卜居す。

同月、東京真風会、老松会、慧照会、興禅護国会、大阪達磨会、兵庫、池田、長野県貞祥寺、盛岡報恩寺、秋田市満願寺、花巻宗青寺等を巡錫する。

『窿隠禅話集』刊行される。


六年 六九歳
四月、悪性流行性感冒にかかり臥す。

十月、大阪府高槻古曽部に少林窟道場落成開単式行われる。

十月、『参禅秘話』刊行される。


七年 七〇歳
大石大典居士主催の千葉船形善道会に病後初めて開講。続いて興禅護国会で提唱中、急に舌もつれ言説通ぜず、講座を降って直に下西、静養加療する。

秋、別府と広島忠海に転地療養、全癒するに至らず。

少林窟口宣両度目に卒倒、西宮自宅にて帰臥静養。

『碧巌集提唱録』刊行される。


八年 七一歳
一月、伊牟田窿文居士剃髪。少林窟第二世として各地禅会を代講せしむ。

二月、再び流行性感冒に侵される。

三月より痔痛甚だしく、五月に至り頭部に神経痛を感ず。やがて半身不随となり六月、酷暑のため消化不良を起こし、三カ月間流動食を辛うじて続ける。

九月、関西地方大水害、学校に避難して事なきを得る。以後、二階に静臥する。

四月、『普勧坐禅儀一莖草』刊行される。『趙州録開莚普説』刊行される。


九年 七二歳
八月、『参禅漫録』刊行される。


一〇年 七三歳
「元日やいつもかはらぬ菩提心」。

六月、春翁窿文老師遷化。「時節因縁なるかな」と独語される。


一二年 七五歳
年賀状「思ひ入る心のうちに道しあらばよしや吉野の山ならずとも」。

九月二十日午後十時四十分、西宮の自宅にて入寂。二十二日密葬、十月三日午後二時、少林窟道場に於いて本葬執行される。


遺稿
『禅友に与ふるの書』(昭和一八年)
『証道歌提唱』(昭和三六年)
『般若心経止啼銭のこころ』(昭和四九年)
『般若心経恁麼来』(昭和六〇年)
『仏祖正伝禅戒鈔提唱』(昭和六一年)
『参同契・宝鏡三昧拾唾』(昭和六一年)
新版『趙州録開莚普説』(平成七年)
『禅交響楽』(未刊)