只管工夫



 いろは法語の主旨にもれず、ババ談義的なお話になりますが務めて、皆さんに解りよいようにとの願いのうえから、只管工夫を申し上げることといたします。仏語をなるべくさけて、申し上げたいものと考えております。特に無能の大智は、ややこしい仏語を知りません。これは幸い教相家の方々がたくさんいられますので、そのかたにおまかせいたしまして、私は只皆さんに宇宙の大真理に徹して頂くことのみの上からお話を進めていきたいと思いますから、どうぞそのおつもりにて。
 元来この只管には手が着かないので、自然講釈の付けようがありません。併し「落書キスナト、ラクガキスル」という世のたとえもありますから、ペンにまかせて・・・・・・
 さて、この手の着かない只管は、独立独歩のものでありますから、ぜんぜん比較のない純の純なるものです。これが本質であって、しかも世の中の中心となって、これに依って総てのものが成り立っています。
 しかし客観的に世の中のすべてのものを、考えます時始めて、高いとか、安いとか、或いは善いとか、悪いとかいう、是非善悪の言葉が生まれてまいります。こうした相対的の人生にありながら、本質に目覚める工夫でありますから、ここにしばらく、この只管を、丸ごて、或いは、タダ、或いは真理、或いは余物のないものと、いろいろ申し上げるのですが、こうした意味合いをあらかじめ知って頂きますと、これから申し上げることがよくお分りと思います。そうして、これが私達の生死問題を究める大きなカギになるのですから実は是非必要となるのです。
 さて、私達は如何にしてこの生死問題を解決したらよろしいかと、申しますと、宗旨に依っていろいろ方法もありますが、私は色々の方法をぬきにいたしまして、私達自身が日々の生活の中にあって、この只管工夫を活用して、この生死問題を明らめたいと思います。別に宗旨を建てますと問題が起こるでしょうが、宗旨がないのですからまことに都合がよく、あえていえばその場その場の宗旨でしょうか・・・・・・・
 そこで、只管を以て、仏の世界に生まれる修行とはどんなことでしょう。この仏の世界と申しますのは、実は、ホドケタ世界ということで、今まで考えられてきた、コウゴウシイ画に表しているようなものとは違います。
    「われわれの心の結ぼれが取れた宇宙的大自然の姿であります。」
 昔より偶像的なものを聞かされておりますと、どうも何か物を認めないとなんだか気が修まらない、悪いくせがあります。このくせをうまく利用して建てた宗旨も、色々ありますが、これは精神の錯乱を利用されるのでありますから、先ず心をおちつけて坐らなければなりません。
 そこで、まあ坐れ、まあ坐禅しなさいということになります。自分のクセは自分が取らなければならないもので、他人が取って呉れると思われましたら、大間違いです。
 この飛び歩く散乱心を、よくよく観察して、心をおちつかせることが第一です。つまり自分で自分の心を整理するのですから、これはなかなか、めんどうで意志を強く持たねばならないものですが、考えように依りましてはまことに面白いものです。それは日々自分の向上して行くことが解るからです。
 たとえば、怒りっぽい人が、だんだん良くなり、或いは執着心の強い人が、だんだん薄らいでくるというようなことですが、万事こうした人々の悪いくせが知らず知らずの間に取れてまいります。
 それは、元々固まった心というものがない印であります。
 只管打坐をしておりますと、自分の悪いくせに気がついて、恥ずかしい心が生まれて来ます。そうなりますと直さずにはいられなくなります。これは坐禅の功徳です。恥ずかしいということが解らぬうちは、わるいことをしても、悪いとも思わず、自然に悪業を重ねます。
 道元禅師も、「悪を造りながら悪に非ずと思い」と申されていられます。人生はこのようにして、「コスク」行かねば生きていかれないとか、或いは人が見ぬから知らぬぐらいに軽く考えて、自分自身をくらましていく哀れな姿、こうした自己破戒の道から救われて行くこともよく解ってまいります。
 初めに申し上げましたように、只管の本質は比較のたたない純粋なものですから、この心得を、チャンと心に刻み、其の上で坐禅をいたしますにしても、又日々の生活の中に在りましても、この只管工夫を活用することが何より大切です。
 先ず只管打坐のことから申し上げますと、標準といたしましては、達磨大師の九年間の面壁を味合われましたらよろしいでしょう。坐禅も釈尊以前から色々ありましたのですから、其の流れとして今日でもなお色々な坐禅があることですが、私が申し上げる坐禅は釈尊の流れとして今日に至りました、坐禅即ち只管打坐であります。たとえ幾世代を経てまいりましても、純の純たる坐禅でなければ、本当の坐禅とは言われないのです。
 これは大真理の表徴でありますから万劫にもくるいのないものです。これを只管打坐と申すのです。ですから、この只管打坐は実に尊いもので、この尊い坐禅を九年間もなさって、世の中に大宣伝をされたのが達磨大師その人です。
 魏の少林寺に在って、只、坐禅をして何も言われなかった、坐禅は既に結果を投げ出しているのですから、実は何も言うことはないぞと、これを、坐禅を坐禅と知る人希なりと古人も申しているのです。
 これは、私という、まざりものがないから、只、坐禅が坐禅をしているのみです。これが只管打坐の本当の姿です。
 ところがなかなかそう実地に行かない。どうしても只坐る事が出来ない。ここに、人々の因縁に依って、色々の苦心のあるところです。初めは感情が実によく飛び歩くものですが、前に述べました、この本質の丸ごて要するに坐禅の丸ごてが大真理だと決定して、その上から、飛び歩くこのものを相手にせず、只坐禅にあることに、心をそそぐことが大切です。
 感情について回りますと、いつまでたっても際限のないものです。早くこのとりとめのない感情を打ち切ることが大事です。
 そうだ、自分は今坐禅をしている。このあるがまま以外に何があるかと、坐相を感じて、過ぎたことも、又未来のことも、現在のこの坐の上に何の必要があろうか、この現実の相こそ、実相ではないか、実相以外に何を認めんとするのかと、自分で自分を是正して行く、そうして、只坐禅のみたらんと一心に努力することです。或いは出てくる感情をつかまえて、この感情何れよりか来る、これ何ぞと感情に切りこんで行く、出てくる度にこれ何ぞと、ぶち切り、ぶち切りして行きますと、自然に出なくなります。出てこなくなるまで、感情と戦争するのです。仏道修行と申すのも別のことではありません。
 自分で造った感情を自分で整理するんです。こうしたようすあいも、只、只管たるべき上の模様であります。
 又体が坐禅しておりますのですから、飛び歩く心も坐禅の上への一時的現象ともみられるので、あまり気になさる必要はありません。それより一心に坐の丸ごてたらんと、努力されますと、感情は自然消滅して、自然に坐禅のみになって来ます。こうなるまでの力は、本人自身の努力心に待たねば成りません。元々私達は仏様なのです。ホドケタ心なのですが、三毒という恐ろしい我見のために、色々の欲が出て来て、ホドケタ心がいつのまにか、しこりとなって、このしこりが遂に慢性になり取りがたい固まりとなってしまうのです。この固まりから、己れが己れがという、毒素が出てくるのです。
 或いは、タマシイというものに変化して行くようになります。そうなると、なかなか厄介千万なことになります。体は死んでも、タマシイ一つは十万億の極楽に行くとか、死んで地獄に行くとかいうようになりますと、さあ大変、他土の往生を願うようになったり、新興宗教にも入らねばならぬようになったり、なかなか面倒になります。こういう言葉があります。

    清浄の行者涅槃に入らず
         破戒の比丘地獄に墜せず

 とこれは結局行くべき地獄も入るべき涅槃もない。一パイ一パイの丸ごてということです。つまりその場その場の他に何があるか、ミナ宇宙的ではないか、(宇宙というこの上もない絶大なもので無量無辺の意味)悪いことをしても、逃げていくことは出来ない、これを自業自得と云うております。善悪共に同じことです。悪いことをして善人顔をしても、自業自得のこの因果無人は、たとえ仏といえども、どうすることも出来ません。落ちる地獄がないと云うて勝手なことは出来ません。丸ごての悪業は宇宙的ですから消すこともどうすることも出来ません。それこそ無間地獄です。三時の業報の理は、仏と雖も免れぬことであります。先ず真理に徹した上の御相談です。

    見ぬ人に何と語らん浪花えの
         あしと云うともよしと云うとも

 さて又ここに注意すべきことは、待悟禅と申しまして、悟りを向こうに立てて坐禅をすることです。これは一面もっともらしく思えますが、よくよく考えますと実は雲泥の差があるのです。
 坐禅に依る心はつまり、私が坐禅しているという気持ち、或いは悟ろう、という考えから起きてくるので、こうした考えは初心者のときは皆そうです。悟りたいと思えばこそ道心が起るのですから、さていよいよ発心して坐禅をすることになりますと、この考えを持たぬように心掛けませんと、これは自分には解らぬままに二人連れになっているのです。この心得をよく納得しませんと、坐禅修行が役に立ちません。これは只管打坐にならないからです。
 坐禅そのもが、「今」自分は坐禅しているのだというていますが、ここです。よくよく味わってみて下さい。そんな感情の入る余地はないでしょう。只坐禅しているのみではありませんか、考えた時は只考えた時で坐禅の時ではありません。前後裁断の様子が判明いたしますと、ここのところがよく分かります。とかく、連続的に考えるくせがありますので、この微細な点がわからないのです。細には極微細に思惟して、そうして、事にあたられますことが大事です。この一刹那が生死の涯際を破るか否かのキワドイ、微妙なところですから何でも大事を取って観察されるように注意なさるとよろしいでしょう。そうしませんと、この切実な一点こそは、丸ごてに在るか、二人連れであるかの分岐点です。
 二元的対々の世相の中に在って、相手ながら、ヘダテのない、様子合を自覚する修行でこれが仏道修行なのです。相手ながら、相手に落ちずに、丸ごての工夫、単の工夫を、修するのです。実に、微妙極まる問題なのです。これは坐禅中の事についてのお話しですが、しかし、日常生活の中にも応用出来る問題ですから、是非応用して頂かなければなりません。
 こういうことになりますと、ここに只管を、仮に三段に分けてお話しをいたします方が、よくお解りかも知れません。
 この只管をしばらく、目的、手段、結果、と三ツに分けてお話しをしてみましょう。始めは目的において、只管たるべく悟りへの精進といたします。これは未知の世界ですから又やむを得ません。併し、本来本質として修証不二と申しまして、修行そのものはすでに証の印しであります。そこでこう云うことを概念的に知って頂かねば、たとえ目的に在る道中といいましても、修行の障りが生じます。そうしませんと、丸ごての只管の工夫にそれるのです。そうなりますと、なかなか埒が明きません。それは、いつまで行っても二人連れであって真理の基盤からそれているからです。学人は修行中ですから、こんなことは解りません。高い所からはよく見えます。これは威張るのでもなければ、自慢するのでもありません。只、ミナさんに真理の世界に生まれて頂きたい一念の上から、隔てのない言葉であります。
 そこで目的にある只管と申しましても、この初一念が一切を含む大きな力があるのですから決して粗末に考えられてはなりません。

    一坐の功を成す人も
        積みし無量の罪滅ぶ

 と、白隠禅師も申されていられるのはこの故あるがた為です。尊いことではありませんか、一寸坐れば一寸の仏、一尺坐れば一尺の仏(これは坐禅の時線香を立てて時間を計っている昔からの習慣です。)そこで寸尺と云う言葉が生まれました。この坐禅中、いろいろの感情が生じましても、坐禅中の感情ですから、時を重ねるに従って、やがては、只管打坐に浄化されて必ず、打坐の真相を自覚する時がまいります。これも人々の努力次第で時の長短はあるでしょうが、たとえ大地を打ち外すことはあっても、この見性うたがいなし。と、古人も証言していられるのですから、安心なことです。
 さて努力の結果始めて悟の世界に生まれましたら、ここにはじめて煩悩がそのまま菩提であったと気が付くのですが、大方の人はこれで悟りを得たとして、腰を下ろして悟りのロ−ヤに入ってしまうのです。そうして融通のきかない人となって、何でも法界一面に取り扱って、人の言葉を問題にしない。こう云う人を悪平等の人として古人もいたくけなされている。それはこの只管を悪平等視させるために、只管からのろわれて悪と云う名が付けられて、真実の法から区別されているのです。
 或は悟りを振り回して、我れは聖人だお前たちは凡人だと、凡聖の涯際を取るどころでなく、むしろ凡聖のヘダテが強くなって、人を見下したり、馬鹿にしたりして、禅天魔となって、却って人のそしりを受けるようになります。
 こうなりますと、せっかく悟ったこの悟りも何の価値もないことになりますから、ここに大いに、心得ねばならぬことが現われてくるのです。
 これは悟ったと云う、自分に位をつけますために、他の人々が卑下してみえるようになるのが基です。
 元来修行と云うものは、自他不二の世界を味合うので在りますが、これが却って自他をかまえていることに気がつかないのです。ここに気が付きますと、この自他をかまえるこの悟りは未だ本物でないぞと、反省されるのですが、悟りだちは、なかなかどうして、天狗になって、うけつけません。或はあまり悟りが固まり過ぎて、ぬけがたい人となるものです。悟りが却ってアダとなって、天魔のそしりを受けるようになりますから、悟った世界と、日常の生活が一致しているか、どうか。若し一致していなければ現在悟ったと思うこの悟りは充分にないぞと、いさぎよく捨てて行きますと、さてこれから只管のやりなおしとして、再出発したとき実は只管が目的でなく、手段となってまいります。この只管打坐は今までより大変楽になって行けるようになる。このところに、気の付いた尊さがあるのです。
 こうなりますと、只管は最早や、目的の段階を過ぎて、手段と云う段階に入りますから一切皆、只管を手段として、修行して行けるようになります。行住坐臥、皆只管工夫として行きます。坐禅の時も、日々の生活の中でも、只管たるべく修行して行けます。しかるに、この手段の道中がなかなか長いのです。これは自覚した悟った気持ちが、ちょいちょい顔をだして邪魔をする。そこでうたた悟れば、うたた捨てよと、とう隠老大師の、一大スロ−ガンが生まれたのです。この一句は千金の価いありと申すべき、有難い言葉です。なかなかこの悟りが捨てきれない、捨てたと思うてもふいふいと出てくる、実に魔物です。
 この魔物が出てきては只管の邪魔をしますから、油断は禁物です。寸暇なく只管を見守って行かねばなりません。只管を見守るということは、行住坐臥只管の丸ごてにあって、余念をまじえずに、何にでも、只々単に成って行くことです。
 高き恋を思うが如くせよと、道元禅師も申されているように、

    本来の面目坊の立ち姿
        一目見しより恋とこそなれ

 でこの只管を恋人として、寝ても覚めても、忘れられないように、恋の道中です。ここに至りますと、浮き世の恋とこの恋と替えて、身も心も仏の恋に陶酔して行く力が生ずるのです。げに尊き永遠不滅の恋のささやき。
 このようにして身も心も仏の家に投げ入れてこそ、只管に在って只管を忘れるようになるのです。
 このようになりますと、すでに手段は一挙一動が宇宙的になってまいりますから、手段の段階は過ぎて、そろそろ結果に入ろうといたします。柿も熟すれば自然に落ちますように、只管と云う念もいらなくなってまいります。これも努力の結果自然現象です。ここの努力は、今までの勇気を百倍して、昼夜兼行に身も心も打捨てた有様です。このようにしているうちに、生死の涯際はいやでもとれざるを得ぬことになります。願わず、求めず、湛々としてあるとき、自然に外境から、もたらされて、自覚さるべき一大事があります。即ちこれが○地一下の因縁であります。
 これは決して、求めて得られるべきものではありません。そこで悟りを待つ待悟禅のイミキラハレテいるありさまも、お解りになられたと思います。
 始め気付いた悟りも、悟りは悟りであっても、小悟と名づけて、真実の法門の入り口に入った程度と、見られたらよろしいでしょう。けなすのではありません、まあ只管に気付いた程度であって、全部をうけがうわけにはまいりません。
 大真理のこの真実の世界は、そう生易しいもので大成出来るものではありません。生きながら、真実の大宇宙の世界を自覚するんですもの、学問でも、哲学でも、この宇宙の真理を解剖しようとして、おくそくすることは、人々勝手たるべきことではありますが、只これは結局おくそくの世界であって、ムダなことです。
 水一滴の味わいすら、如何に名言妙句を、弄してみても、書き表わすことは出来ないではありませんか、何故でしょう、これは、たとえ水一滴といえども宇宙の真理の一現象であるからです。人々には直接味合われても、この味はひは何物を以てしても表現することは、不可能です。しかも、人々直接味合われている身近な問題ですから妙ではありませんか、これが即ち妙法の姿です。
 そうしてみますと、知る知らぬにかかわらず、われわれの生活は、ミナ真理の当体に直面しているありさまなのです。これを却って遠きにながめ、求めているのです。この大真理の中に生老病死しながら、喜怒哀楽の妙を尽くして、生死々々として、只管のままに、生活を現しているのであります。
 世の中のお偉方は「この宗教を」やれ哲学、科学、宗教と、人生の一部として眺めていられるようですが、それでは宗教と云うことには一寸語弊があるように思えます。
 この宇宙の大真理の教こそ、宗教と云い只管と申すのですから、この只管修行は人生最大の教であって、この只管の完成は結局大真理の自覚でありますから、この上もない、尊い修行方法であります。
 こんなことを申し上げても、未知な方には想像も着かないことと思います。しかし、前述べましたように、水の味わいを考えて頂けば概念的にも、よくおわかりと思います。水ばかりではなく、苦痛の味わい、喜びの味わい、こうした無形の味わいを何に依って表現することが出来るでしょうか、只人々自覚を促すより外に道はないでしょう。これを、妙法と名付けているに過ぎません。こうした味わいを自覚するのは、只管打坐即ち坐禅以外に知る方法は絶対にありません。そうしてみると、この人生は坐禅より他に世界を統一する道はないでしょう。人々がこの坐禅に依って生活をいたしますと、嫌でも平和な世界が生まれてくるのです。
 さて動中の工夫ですが、これは、坐禅の熟するにつれて、動中も自から行住坐臥共に、只管工夫になってまいります。
 天職としての人々の業務にありましても、余念なくあるがままに、練って行くのです。要するに、其の場、其の場に単に在ること以外に心を用いぬようにいたします。初めからそう単調には行かないものですが、しかし努力心は必ず成るものです。この力に依って、生死問題及び人生を有意義たらしめるのですから、時々転々として変遷して行く有様を、心静かに、観察して単を練りますと、自然にこの変遷に心を労せず、淡々と一条の滝の流れるが如く行けるようになります。動中に在って、ここまで練れますことは、大変な努力と願心の賜物です。静中の工夫よりも動中の工夫は数千倍勝っていると、古人も申されますが、どちらも同じ事だと思います。これも人々の願心にあるのと、着眼点に依ることなのですから、どちらも別に優劣はないと信じます。
 うつりぎな人は転ぜられやすいのでしょう。しかし、坐の時でも、おちつきのとぼしい人はやはり単調に坐れにくいのですから、同じことです。これは人々の因縁生に依って性格のタンパクな人と、シット心の深い人が在りますように、こうした性格もよほど、手伝う面があります。これは人々の個性の問題ですから、自己をよく見つめて、是正して行くことも大成を早める糧となることになります。先ず器をきれいにすることが大切です。そうしませんと、入った物が汚れていきます。しかし、これは只管の練れるにつれて浄化されて行くものです。元来どうあっても皆真理の具眼者なのですから、一超直入如来地とあって、然るべきことです。これを思いますとき、悪に強いものは、善にも強いと申しますように、すべては自己の願心に依ることを信じます。
 常に無常を観じて今生にある我が身を喜びとして、この正修行たる只管工夫に邁進せられるよう、お勧めいたします。願心あれば何事かならざらん、一滴一滴の雨垂れの水すらも、石にも穴をうがつではありませんか。路傍のこととして、この尊き人生を、むなしく過ごすことは、恨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり。と道元禅師も申されていられます。願わくば、只管々々、平和々々たらんことを、かくして、和気靄々たるこの人生にあって、東方より光明を発してこの苦海の大煙霧を払い、さざ波に光りあらしめられんことを、お祈りしてやみません。

    荒磯の波もよせぬ高岩に
        かきもつくべき法ならばこそ

                                      合掌