照庵大智老尼語録断簡


    大智老尼年頭法語

私が皆さんにお話しするのは宗教と言うことじゃなくて凛々とした、人の道とし てあらねばならないお話です。
人には色々な性分がありその性分の縁に応じて自 分の心に惑乱、錯乱が生じるでしょう。それを癒すのが坐禅です。只人の心の結 ぼれを解す、それが坐禅なんです。
禅いうことは示す辺に単の字でしょう。単を 示すんです。皆そのものに本当に只単調にやれば、只やってることを他の余念無 しに、一心不乱にその事のみに単調にあるとき、それを禅と言うんです。
禅と言 う物を殊更立ててそれに添って行くんじゃないんです。添って行くんじゃなくて 我々がその事のみに、仕事でも、家事でも何でも今やっているその事のみに只単 調にあらねばならないのです。単調に踏んでいる人を禅者と言うのです。只耳に 聞いてこうだな、ああだなということを言うのは耳の説法です。本当の禅はそう じゃない。そういう理論の世界を離れて、実地に今やってることに本当に身を挺 する。これを修業と言うのです、それを禅と言うのです。
それをお釈迦様が身を もってお示しになってる。それを我々が踏んで行くんだからあらゆる宗教とは趣 が違うし、根本治療になるんです。自分が本当に単になってやれさえしたら皆禅 です。
作業を只一心に本当に単になってやっていればそれが作務禅です。こうや って一心に只坐っているときこれを坐禅と言うんです。
坐禅と言う言葉だけを皆 覚えて、坐禅を何時間した、あんたも何時間したと言って威張る人がいるんで す。これはもう禅じゃないんです、邪禅です。本当に坐っているときには五分で も一分でも本当にかくあるときが本当の坐禅です。

大智老尼法語より


今、今には前後が無いんです。苦しいときには苦しいばかり。それを苦しいばかりに成り切らず、心の癖として過去に情報化された楽しい事や救われた安楽という事を今に引っぱり出して比較をしてしまう。
つまり過去と今を比較をし余計苦しみを増しているんです。そいう比較する心の余地を与えずに苦しいままに成り切っておれば、苦しいままで他に余念が無いからそれ以上の物は無いんです。
心痛をしないということなんです。そうするとそこには別段なものを呼び起こしてくる動機が無いから一切の苦厄が起こらないわけです。だから当然のこと救われた状態にあり、それが三世の諸仏の境涯なんです。
どんなに悟っても、たとえお釈迦様であっても分からないことは分からない、辛いことは辛い、暑いことは暑いんです。只祖師方の脱落した境涯と、そうでない凡夫との違いは何処にあるかと言うと、只そのものだけに単一になって接する力が有るか無いか、それだけなんです。
と言うことはこの一瞬に念を起こすか起こさないかだけなんです。連続をさせるかさせないか、そのことを認めて情報化するかしないか、ここで仏と凡夫とが別れるんです。深く行ずるというのはそのものだけに徹することですから、見るときには見るばかりになり、見るという意識も無いんです。
「見るままにまた心無き身にしあれば、見るというだけ時の盗人」とあるでしょう。満身目になり、満身そのものに成って見ておるときには見るという意識を運び込む余地が無いんです。「心なき身にしあれば」と言うのは心意識の運転を持ち込まないと言うことです。「見ると言うだけ時の盗人」見ると言うような念を働かせておる暇が何処にあるかと。これ道元禅師の言葉です。
同じように「聞くままにまた心無き身にしあれば、己なりけり軒の玉水」満身聞くばかりで、満身耳になり、満身音に成り切ってそこには只雨だれの音だけがぽたっ、ぽたっと。これだけでそこには一切のイメージもなければ心意識を運び込む余地がない。
これが瞬間、瞬間の様子です。「今と言う今なる時はなかりけり、まの時くればいの時が去る」私達は今と言う言葉を簡単に分かり切ったように使っていますが、今という時なんか何処にも無いんです。「い」と言うた時にはまだ「ま」が来てないんです。「ま」と言うた時にはもう「い」が無いんです。つまり、瞬間、瞬間は前後が無いということです。


聞く時には只聞くんです。分かる分からんを捨てて只聞けばいいんです。たとえ相手に境涯が無くても只聞くときには皆法として生きてきます。仏道修行と言ってもこれを本当に強く信じてやる。このことを仏道修行と言うんです。
そうすれば洗濯していても、茶碗を洗っていても心得によっては皆仏道修業です。何をするにしてもそれが只やれるかどうかを自分の心に照らしてみて、そして素直にやるだけです。鍬を一本打ってみてもこれだけの荒れ地を耕さなければならないと思うとうんざりするんです。いいですねそこを只一鍬、一鍬だけなんです。只一鍬、一鍬だけでいつの間にか荒れ地が耕されてくるんです。人生の生き方はそれなんです。人を小馬鹿にしたり、自分の感情を満足させるべく人にとやかく言えば人が困るんです。なま半可な禅者にはこれが多いんです。
だから何事によらず自分を素直にするんです。自分を虚にして接するんです。自分を虚にしなければ接しても衝突するでしょう。その衝突が無くなるんです。それが禅者の偉いところなんです。有り難いところなんです。私は坐禅をしますという顔をしても生意気な人は嫌われるだけなんです。
自分の心をどこまでも砕いて、虚にして只単々と、黙々としてやるんです。かじってる間は言いたいものなんです。



参禅者 捨てるということなんですが、道理では分かるんですが、捨てるとはどういうふうにやるんですか。
老 尼 相手にしない、取り合わないということです。自分の中に「はぁはぁ」と頷ける物があると「あれはいいな」と思うでしょう。そうすると今度はそれに引っ付いて離さないでしょう。それはそれで良かったらいいんです。それを執着し引っ付かないんです。そうしないと次の物が入ってこなくなるでしょう。本質と言う物は言いながら言い潰れているんです。言うその一言一句は言いながら次々に跡形無く消えて行くんです。「はい」と言えば「は」が逃げなきゃ「い」が出ないでしょう。そういうふうにね跡形がないのよ。それと同じで何物もそうなんです。自分の一切の物、その中の一切の物が次々に消えて行くんです。それに引っ付いていかない。それは道理で「はぁはぁ」と思ってもそれは道理の世界です。一言一句がもう流転しているんだから、世の中がそうなんです。聞いて覚えた物はそれはそれでいいじゃないですか。それをいつまでもあのときはこうあった、ああやったというふうに固守してるんです。呼吸を只吸うでしょう、吸うのに引っ付いていたら今度は吐けないないでしょう。あれと同じなんです。一呼吸の状態は宇宙の呼吸と同じなんです。



●朝夕の只管打坐、この只管打坐だけは必要です。色々な雑務が多いでしょうがその中でも特に打坐なら只管打坐、呼吸なら只管呼吸を大いに練ることが必要です。これが釈尊の標準です、これが物を言うんです。朝夕の打坐によって動中の只管、活動の只管がより一層鮮明になり、そして日常生活がスムーズに行くんです。成す事に感情が添い、自分を束縛していたことに気が付くんです。只活動することによってその感情の負担が取れてくるんです。感情が添わないのだから何でも楽に行くんです。負担が取れるから病気でも楽になるんです。だから朝夕の坐禅が物を言うんです。
●単々としているのがいいですね。思うことも、言うことも無しに、只単々としていると言うことが実は一番いいんです。色んな雑念が出てきても只出てきたままです。相手にしないで単々と今、今の物に今あればいいんです。できるだけそう言う風にして意を働かさないことです。只管とはそれその物なんです。本当は何も言うことは無いんです。言うことが無いから思うことは無論無いんです。思うことが無いから喋ることが無い。喋ることが無いからさてどうしたらいいか、只管とはかくのごとき物なんです。理屈を捨て 只管の当体としてこれを味わうんです。味わうにはもう一歩捨て身でね、百尺竿頭を一歩進めて捨て身になって只管を練って行くんです。



只管、ひたすら、只、これは永遠に通じる宝なんです。万劫変わるとも、只管は万劫に変わらないんです。言い換えれば真理です。今、今と言っても「い」これだけです。「ま」これだけです。言葉に乗せれば「い」が逃げない限り「ま」がこない。これで修行者はいつも縦の今を見ていれば間違いないんです。常に今だけの線をね、これを守り本尊として、不動心としていけばいいんです。しかし、ほとんどこれがないんです。おそらく、十が八、九は眺めた今です。今に使われているんです。転々として、それで今が変わっていくと分からないようになるでしょう。だけどいつも今の線に自分がちゃんとあって、それで変わるのはまかしとけばいいんです。思慮分別を入れない今にちゃんとあるようになると娑婆の縁に触れても只縁の働きとして、常に今の縦の縁で、只縁に応じて行く力が付いてくるんです。相手が入ろうが、入るまいが自ずからの光明だからこれに拘らないんです。こっちが拘るから向こうが引っかかったように見える。見えるだけなんですよ、本当は拘りはないんです。それを殊更相手立てて、私を立てる。私があるから相手があるとこう見ればいいんです。こっちが全然無かったら相 手はそのまま私になっているんです。相手が無いと言うことが言明できるんです。



●坐禅は安楽の法門ですからね、軽ーく吸って、軽ーく吐く。それを殊更どうのこうのと言わずに、丸ごてにやらないと。一心に吐くと言うのはね、丸ごてに全身の呼吸と言うこと。呼吸以外の感情に落ちないことよね。只素直にこうして吐く。これが本当なんです。それで坐禅でも「坐禅を坐禅と知る人まれなり」とこうあるでしょう。「只単になる」これが坐禅のそれ自体でしょう。だったら呼吸それ自体は只吸って、只吐く。理屈が無いですわね。その素直さに帰ると言うことは、自然に自分がそれ一つのものに集中する癖を付けるんです。
●直にその心をさして見性成仏させる。直にと言うこれが中心です。只聞く時には聞くの直になり、見る時には見る刹那、刹那と言ってもいいですね。ぽっとこう思う。その時これ何ぞ、これ何ぞと、いちいち感情をつかまえて行くのも工夫の一つです。只端坐していてもよし。端坐の上で何かの感情が出てくればこれ何ぞ、また出てくればこれ何ぞで切る。これは学人の大切なところですね、そうすればそれはそれで終わります。それにいつも心しておると言うことです。それが菩提心です。



老 尼 日常生活の中に憎愛というか、苦しみに触れるような気持ちが残っている場合があるでしょう。また、そう言う一つのものが残っていると人を疑ったりするでしょう。あるいは色々な事でくちゃくちゃした気持ちになったりするでしょう。その時の切り方です。これを本当に修行者に教えてあげたいんです。それはね、ほっと今に帰る、只即念に帰るんです。即念に帰れば用はないでしょう。即念で切るんです。良いことにしろ、悪いことにしろ何か心に引っかかる時があるでしょう。そのいりもしない、考えても仕方がないものを切るのに、すぐ今に帰るんです。即念にほっとね。今に帰るとそう言う用のない、過ぎた事に自分が引っかっていたと言うことが良く分かるんです。ところが過去を思う事自体が今思っているのだと言うでしょうが、それは理屈なんです。そんな理屈のない、自分が事実の今のみになって、そして今の世界で浄化していくんです。
参禅者 それはね至り得た人なら切れるでしょう、切るなと言っても切れるでしょう。
老 尼 いやいや至り得なくても事実が問題でしょ。至り得る、得ないを第二としてね、事実の今にあるんです。事実の今であるならば、この今にほっと帰るんです。即念に帰って切るんです。
参禅者 それでね、例えばこう手を上げますね、この時に上げるいうことを意識するんでしょ。
老 尼 いやいや、意識なしの様子を見届けるんです。
参禅者 だったらこう上げても、上げてるのを見てるわけですか。
老 尼 あなたがね、見るいう観念が強いのよ。そのために知らない間に相手が立っているんです。ここをよく味わってください。見るとか、聞くとかいう観念が隔てるんです。只にはね、見る、見んという言葉はいらなくなる。
参禅者 上げる時に上げるいうことを思わずに只上げるんですか。実際手を上げる時には只やってますね。
老 尼 事実は講釈など無いということは分かっているでしょう。それならそれを、意識する、しないを超えたところで只やってればいいんです。世念の今のいろんな感情を捨ててね。只この呼吸のみにある時にはね、のみにある時にはそれだけであって、もう観念ではない。事実、只それだけを只あるだけなんです。そしたら事実を事実として踏めばいいんですよ。只踏んでいけばいいんです。だから事実を事実として素直な気持ちでやっていれば素直な線が自得できるんです。それでね、あなたの講釈を捨てたら良いんです、講釈する癖を。



老 尼 修行者は呼吸法を今という縦に見るのが秘訣です。いいですか、それをね横に眺めていくのが往々にして娑婆の世界の見方なんです。その娑婆世界の隔てを取るのが目標ですからね、そうすると何時も今の一つを守っておれば目標を達することに成るんです。そうすると常に今というものを離さないようにあらねばならない。そこにはなんらの理屈も理由もいらないんです。只、今のみに自分というものがおかれてあるならば、何が変化しようとも今のみですわね。変化の今のみです。そしたら呼吸でもそうです。それで呼吸はどうある、こうあるということは頭から問題にしない方がいいですわ。只吐いて、只吸えばいいんです。吸い切れば自然に吐き出す。吐き出し切ればまた自然に吸い切る。只それだけなんです。
参禅者 楽なようにやったらいいんですね。
老 尼 そうです、そうです。先生があまりにも学問的にも熟知しすぎていらっしゃる。また職業柄色々な方面から分析して見られる癖がついておられるんです。それは世の姿。娑婆の観念を暫くぶち切ってですね、そして今のみに中心でありながら、娑婆の横の線を陶冶しながらやっていくんです。



今を抜きにしてはならない、今が中心でなければならないのです。流れて止まぬこの随縁真如でも煎じ詰めれば今の姿である。縦にも横にも自由自在にある今は要するに只一心の説明である。心の感想にすぎないとも言われるのである。そうして縦にも横にも説けるこの今の大真理は普く一切を包含して泰然自若たるものである。かかる偉大なるものを元来我々は保有しているのである。これを仏性とも仏法とも言われています。つまり生まれながらのお家柄である。ここを白隠禅師も「長者の家の子となりて貧裡に迷うにことならず」と言われている。あるいは「幼児のしだいしだいに知恵付きて仏に遠くなるぞ悲しき」とも言われている。要するに色々の欲望のために自我の虜となって真実性を自分自身で眩ましていくのである。そうなると足下が分からなくなるために色々なものにぶつかり大怪我をする。つまり今を忘れた姿である。願わくば今の投入によって常に足下を照らして行きたいものである。今の光明とは、即ちこの光明は人々の心の光とも言うべきものです。他より受けるものではない。自分自身の金剛石である。皆金剛石の持ち主である。元来金剛石の家柄である。金剛石も磨かずば玉の光 は加わざらん。つまり修行しなければだめなのである。自分自身を磨くのである。



仏法は解けた法なんです。理論づけた色々な講釈は仏説として書き表されていますが、これは仏の法として書かれてあるだけなんです。ここは今体験する実習なんですからね。それを実行するのが禅者、踏むのが禅者。踏まなければ禅者じゃないんです、只の物知りというだけなんです。
一々に当たって自分がその如くあるか、只単々とできるかということを追求して踏んでいくんです。そうすれば何をしていてもそのものには関係ないんです。自分の好む事は喜んでするけど、好まない事は嫌みが出るんです。好むと好まないとに関わらず皆真理の当体なんです。そこをよくよく味わって、何でも皆自分をそのもののみに乗せていくんです。
坐禅は真理の参究をするんですから、実地に踏んでいくところに禅者の価値があるんです。真理の真相を知るには着眼が大切です。この着眼がずれているといくら坐禅をしても坐禅の意義が無くなる。
分からなくなっても、只坐る、只単々と坐るんです。その心で坐禅をすれば、それが教えてくれるからね。初めからそうはなれなくてもそれを信じて、何でも只単々とやるんです。一生懸命やるということですね。それに熱烈な願心を持って、菩提心をより強めて努力するんです。願心次第では距離が無いんです。すぐそのまま到着です。



家の中でも、子供の言葉でも、主人の言葉でも、皆この婆婆和和のこうした言葉の現成が皆真理の当体なんです。また、そんな粗末な独自の言葉のように思わずに、只それを私を挟まないで単調に聞くんです。
単調にあるとそれが、単が教えてくれる。単調じゃないと分らない。そこで只管打坐と言うことの大要旨が出るんです。だから只管を工夫すると言っても、ここで黙々として黙って坐禅するのが只管打坐とのみ思ってはいけません。そうしないと、坐禅をしないと只管打坐が分らんようになるでしょう。
講釈を入れたり、物を当てにしてやって、そうしてそれを理論付けて考えてみたりすると思っては間違い。そう言うものを捨てるための只管打坐なんです。何でも只単々と私を挟まないで行う。
平常ありきたったことが皆仏道修行の当体なんです。それを忘れないように何時でも何処でも只、単々と行う心が動いているといいんですがね。そう言う心が動きにくいんです。それを動かせる力が、坐禅していると生まれてくるんです。



仕事なら仕事をしている事に、自らがそれに只参じて行く。それが皆真理の現象ですから。真理と言っても他には無いんです。女性は女性の道に只順じて行く。男子は男子の天職に只参じて行く、皆これ道なんです。
だから「平常心是道」とあるでしょう。平常のやってる事が皆道なんだから、百姓は百姓し、商人が商売をし、先生が先生をする。皆この即今底、即今底の参究なんです。生きているこれを自覚するのが仏道修行なんです。
仏道と言うことは「ほどけ」ている、このほどけている味わいを味わうのが仏道修行と言うことになるんです。講釈でなしにね。味わって、そしてその味わいを体得した上で物事に接して行く。そうしないと色々な感情にもてあそばれるからね。もてあそばれないようにするにはどうしてもそのものの何たるかを知らなきゃいけないんです。小さい事でも大きい事でも同じ事です。
それを知るために即今底のみに只参じる。単々と只参じるんです。



自分の願心は「常にそのもののみ」であることに置いて、そして参究していかないと何時まで経っても駄目なんです。明日する、明日すると言う気持ちでは何時かそれが過ぎてしまう。昔話を言ってもそれは昔の話。今切実な現在のものに渾身的に参じて行く。この今が一番大事なんです。
だから色々に他の事を考えることもいらないし、先の事を考えることもいらない。只、今、今を考えて行く。同じ考えるのならば今を考えればいいんです。この今の実相を自覚するのが真理を参究する事になるのですから。だから字句に当たり講釈を言うと言うことは本を見れば分るんですからね。本にも書き表せない今。だったら何処におったらいいんでしょうか。
自分がなしてる即今底のみに只参じて行く。只参じて行く。講釈が出るとそれは本当に参じるのにはならないのです。認めながら、それを考えるのではなしに、只参じるのですから理屈も講釈もいらないのです。



無常ですから瞬く間に時が過ぎて行く。どうか瞬時を軽率にせず一心に練ってください。何時の間にか時が過ぎて行く。じゃからその場その場を大切にして一生懸命やらなきゃいけません。今日がなきゃ明日があるという悠長な気分ではとても大法は得られません。
今、今ということすらも、いの時来ればまの時は去る言うて、今と言うことすらも真理の時間には今なんですからね。そしたら常に今、今ということで何をするのにもその気持ちで自分の心を叩くんですね。



それよりは先生、朝夕この只管打坐だけは必要ですわ。色々な雑務は多いだろうけれども、その中で特に只管なら只管打坐、呼吸なら只管呼吸の一つのね中心を大いに練られるとなおその活動が鮮明になって、そいでスムースに行くですわ。
それを密にやることが難しいんです。これが一番難しいです、本当言うたら。それを主にね気を付けてくださいね。出来るだけ一人おられて、そして静かに、静かにあるよりも常にそれが離れないということがものを言いますよ。離れるもんです、本当言うたら離れるんです。続けることによってそれが離れなくなるんです。吸う吐く、吸う吐くの際どいところの間までも抜けないんですよ、願心が。ほしたら常住不変でしょ、まだゆとりがあるんですよ。それを良く味わってくださいね。



人生はこの一呼吸で解決がつくんです。
呼吸は吸うと自然に只吐かねばならない。自然がそうあらしめているのだから自分の呼吸という事は言えないでしょう。ここをよく知ってください。これ大事な問題ですわ。だったら只吸うて、只吐く、という事以外には道はないでしょう。
結論ですよ。極を話すんですよ。これは初心者も古参も無いんです。生きた説法です。
この理屈の無い事を知っていただいて、ここを守ればいいんです。只吸うて、只吐く、これが只管なんです。それで感情、あるいは今まで聞いたものを添えるでしょ。その添える事がいらないという事を知ってもらえばいいんです。暇さえあればこの一呼吸に全身を呈するんです。五分でも十分でもいい、それを命懸けでやる真剣さとですね、只やればいいということだけです。本来理屈がいらないでしょう。



      大智老尼 年頭法語

 坐禅は坐禅なり。坐禅は始めの終わりなり。
 皆これを知らず、坐禅に依って悟ると思うなり。
 しかには非らざるなり。
 只凡情を尽くせ、別に聖解なしとある。
 凡情を尽くすのが正修行なり。
 悟りとはさっと取るなりとある。
 工夫とは別に工夫なし。余物なければ幸いなり。
 これ只管なり。
 皆外辺に遊ぶ。直心に工夫をなすべきを知らず。
 願心のにぶきに原因するものなり。
 打せよ、打せよ。
 如法は常に汝を愛するなり。
 年頭の一句そもさん。
 噫、菩提心、々々々



それはね一心に努力すれば単調になるんです。坐の努力が足らんのです。努力を菩提心と言うんです。その努力と言うことは添え物をしないという事を守ることです。只坐ってるだけなら、只これだけをどこまでもあらねばならない。それがちょっと気が抜けるとすぐ何かが入ってくる。だから始めは守らなければいけないのです。あの「只管工夫」を何遍でも読んでごらんなさい。



お釈迦さんは今を自覚されただけです。
何時も今、今です。吸う時は吸うのみ。吐く時は吸うたのを吐くとは違うでしょう。吸うた世界はそのまま消滅し、吐く時は吐くの今だけです。
吸う時は吸うの今、吐く時は吐くの今、寝る時は寝るの今、坐った時は坐った時の今という事になるでしょう。一念心の中心を失わんようにすれば何時も工夫の線に貴方がおるんじゃ。それを相手取るが故に対立して隔てとなり問題が起きる。一杯一杯に自分を何時も中心に置いておればいいんだ。



尼僧:自分を振返ってみますとね、すぐ相手立ててるんですね。朝から晩まで、そのための娑婆の生活みたいな感じです。
老尼:そこでね、その中心を今の呼吸に置いて練ってご覧なさい。それで呼吸のみにおられるようになると、相手どった事も自ずから消えるんです。只管打坐で何十年と貴方一人の生活はできるんですよ。けれども社会に処していく上では色んな事があり、形ばかりの只管打坐では全ての人に気を配っていくのが難しいでしょう。そこで暫くね、自分一人に成り、無駄な時の方へ自分を落とさないようにして単を練るんです。単を練らないと単がすぐ相手立つようになるんです。単にならずに、説明の単になるんです。そうじゃなくって身を単にさせるんです。
だったら吸う時には吸う単、吐く時には吐く単、歩く時には歩く単、御飯を研ぐときには御飯だけの単になればいいでしょう。その時、その時が一杯、一杯なんだから。そこへ何かを持込むもんだから、自分の世界が五里霧中になるんです。



尼僧:その単の状態を仏だとおっしゃるんでしょ。その時には別に自己というものは存在しないですね。
老尼:それを説明したら今度は毒になる。それはね只単に成ればいい。只単に成り切った時にそれが教えてくれるんです。理として言えば貴方が答を先に取り、修行がおろそかになる。先に答を知ったら修行は無いじゃないですか、いらんじゃないですか、それを恐れるんです。理として納得しても修行しなければ実がのらないでしょう。そういうものには拘らないで、一呼吸、一呼吸に、成り切り、成り切り、そしてほうきを持てばほうきに成り切り、成り切りして実地に踏んで行かなければ実がのらない。この実地に踏む事が修行なんです。先に頭で理解し、頭で納得してしまう、これがいけないんです。結局、言ってみたところで想像物なんですから。水の冷たさは自らでなければ分らないでしょ。いいですか見性したいんでしょう。そうしなきゃ安心して死ねないですわね。



老尼:それで今の一呼吸のところでね、私の入らない事を一生懸命修行すれば出来るんです。実がのれば一切が明らかになるんです。そういうようにして、人知れず努力しなさい。始めから成れませんがこれが熟すれば、人に接するときは、自然に只接するように自ずからなります。いいですか、只管を練ればですよ。病気なら病気に成り、時には御飯なら御飯を食べる。工夫の要領は他にはないんです。我々がその物のみにあった時を禅と言うだけなんです。単を示すんだから、身をもって示すんだから。理屈のいらない工夫をしていけばね、理屈が入らなくなる。そこは練らにゃいかん。そこが修行なんです。頭ばっかりが先にいっちゃいけません。
それでね、よくよく味わってごらんなさい。御飯を食べるにしても、何をするにしても、今そうやってやるもの、その物のみにおられるか、おられんか、静かに何時も味わってごらんなさい。



坐禅はね只坐わるのが坐禅じゃないんです。正法を知る、見性するために坐禅するんです。
そうすると有所得心になるんですが、けれども目標は見性を目標として坐わるんです。それで坐わるときにはもうその目標を捨てた坐にならなければいけません。だけど始めはどうしても道を得んとして努力していくんですよ。
相手ながら相手に拘らない、相手に囚われないように自分で努力して単を練って行くんです。
それが教えてくれます。私が教えるんじゃないんです、貴方自身の努力が教えてくれる、そして単が教えてくれるんです。



久遠劫来とか、永遠不滅とか言えば遠い昔のように考えるでしょう。禅者が遠い昔のように考える人は共に禅を語る資格が無いんです。今が永遠の生命の根源でしょう、それは分るでしょう。そしたら今だけにおればいいでしょ。今だけにおるのが永遠の正法の表現です。それで一呼吸を只吸い、只吐いているこの一呼吸は私さえ入らなければ永遠の呼吸なんです。それを私を入れるが故に貴方の呼吸になる。いいですかそこに感情が入りさえしなければ永遠の呼吸なんですよ。



老尼:何か分らないところがありますか
尼僧:難しい事が多くて
老尼:頭で考えるから駄目なんです。分らなければ、分らなくてもいいんです。分る時が来たら分るんです。
それで、只聞くいうことが大切です。いいですか、なんでも修行の時はね、何でも只聞く。鳥の声であろうが、風の声であろうが何でもいいんです。只のみですわ。只聞く。そしたら自分を虚にしとれば只聞ける。自分が偉いとそれがぶつかって、色々言うことが出てくるんです。
その偉いものを打ち抜くんですよ。偉い人が馬鹿になるのは難しいことです。



老尼:修行の線の上で、只見る時には桜を桜と言う心念は無いはずなんです。只花に成ってるとか、花と言うことも言えない。只してる時には呼吸言う心念が有るか、無いかいうことも味わってくださいね。



老尼:先生ね、真剣になって、こう呼吸をやってください。(老尼実際に息を吸込む)吸い切ったらその次は自然どうなりますか?
先生:吐く。
老尼:吐く。その時に自分が入ってると思いますか
先生:入ってるとは思いません。
老尼:思わない。ね、それじゃ只吐いているでしょう。
そこですよ。吸い切れば自然に(老尼息を吸って吐く)
吐きだす。出し切れば自然にまた。
先生:吸いますなあ。
老尼:吸う、それで自然にまた吐きだす。それだったら先生の呼吸でないいうことが分りますね。私を用いられない、大自然の呼吸を自分はせしめられているということの納得がいくでしょう。
先生:ええ、納得いきます。
老尼:これで一様、大真理の大自然を自分は具しているという信念は生まれるはずです。その調子で何に当たっても大自然に只やっていく。呼吸と同じコツです。そしたら今の只吸い、只吐くいうのは、只聞くという、この私の入れられないことは明らかなはずですね。その線を守って行けば只管の当体です。



老尼:もがく用は無いんです。我々は個人の我々でありながら、大自然にせしめられている大きな器であることは頷けるでしょう。そこが分りましたらね、もうこれ理屈を付けないで只管呼吸に成らざるを得んでしょう。
理屈を離れた世界であるから、理屈を入れたらこれを汚すことになる。それを入れたがるでしょう、何か文句を入れたいですわね。それはね裟婆の学問の癖です。その癖を取るのが修行でしょう。
この一呼吸を一心不乱におやりなさればね、それが教えてくれるんですよ。これが工夫の無い工夫になってくるんですわ。それを一心不乱にやればいいんです。私の入らないことをですよ。
入ろうとしたらいらんことじゃから「これ何ぞ!」で捨てるんですね。これだけを守られたら、もういいですわ。一々にこれを守ってやってごらんなさい、大きい効果がありますわ。本など見られんほうがいいですわ。本見られる余地をこの熟練に専念されたらね、私は実力が付く思います。それを信じて、それを熱烈に、自分を磨く人が少ないんですね。何かこう相手取ったものに集中していこうとする。この相手取る事を暫く止めるのがいいんですね。



この単調な一呼吸、それ自体がそのものに成るんです。
そのまま何にでも成ってくるんです。そういう原動力になるんですよ。だから一呼吸を馬鹿にしちゃいけませんよ。この一呼吸を止めれば死ななきゃいけないですからね。生きた問題ですよ、それで生きた工夫ですよ。だから古人の書いたものよりも生きた工夫へ目を向ければ生きた仏に成れる。絵に有るものを詮索するよりは自分実地の生きた線を、今、今でやってみる。
しかもそれを只吸い、只吐く。この生きた工夫をですね、今だけの線だけに只こう(老尼実際に呼吸をする)、只吸い、只吐く。これを一心不乱にやるんです。あの「息念の法」は良く出来ていますよ。あれは遂行する線ですね。呼吸は自然に備ってるものだから、皆が割に意に介さないんです。問題にしないんです、この大きな器を。しかも重大性のあるこの今の一呼吸を。



とにかく今に帰る。今の一呼吸の生命に帰るだけでしょう。本来大生命を具しているんだから。
それが、自分が息を吸い、自分が息を吐くんだったら小さい生命なんです。自分が無い言うことが分ると言うことは、私が入らないこの一呼吸は宇宙的な呼吸と言うことなんです。私の無い大きな呼吸を自得すると言うことは、億万年過ぎてもこの呼吸以外ないと言うことなんです。
この一呼吸を一心不乱にやると、私の添えない一呼吸を一心不乱にやっているとね、自ずから呼吸になれるんです。知らずして呼吸に成り切れるんです。知らずして呼吸に成り切り切ったら自ずから差し向けられるものがあるんです。
自ずからでなければいけないんですよ。自分から運ぶのはいけないんです。だから「自己を運ぶは迷い也」とあるでしょう。この一呼吸は大きなものなんですよ。ありふれてもあり、こう自ずから呼吸しているから何とも思っていないんです。



老尼:私の入らない自然な呼吸を常に熟させると言うことが第一なんです。あの、老師「熟ならしめる」とか言う言葉がありますね。
義光老師:そうそう、「ままなるものは熟ならしめよ」とかね、「熟なる者はままならしめよ」と 。
老尼:それを熟さなくちゃいけない。それを熟させなければ熟れない。柿でもね、自然に熟するまで待てと言うことは、私が入らないところを熟させるんですよ。これで、私の無いことだけは分ったでしょう。それで迷えばすぐこの一呼吸をするんです。(老尼実際に只息を吸う)とこう吸ってね、それで、(老尼只息を吐く)と吐く。吸い切れば、吐き切る力がありますね。吐き切り切れば嫌でも吸う。皆吐きくさしですわ。吸いくさし、吐きくさしですわ。
それで色々なことをやるのを止めてこの一呼吸をおやりなさい。必ず見性すること疑いなし。



過去の色んな体験や経験を持出すんではなく、今からです。今の一呼吸のみが只問題です。
それを楽に、意を用いないで楽にやるんです。意を用いると疲れるんです。それでそんな時はおそらくね、「悟ろう」とか「こうあろう」という意が入ってるに違いないんです。私の言うところは意の入らないところを言っているんです。それをどこまでも、意を用いない一呼吸を中心に今から、たった今から始めるだけなんです。



物知りになったり、気位を高く持つのではないのですよ。本当に馬鹿になる修行です。西に向けと言われれば「はい」、東に向けと言われれば「はい」と只縁に従って自己無きを実証するんです。日々の自分の生活の中に何に向かっても只やれるか、本当に只やれるように、我があれば自ずから只になるように修行していくのです。
修の一字を胸に掛け、自分で自分を是正して、正しく人生を生きていく手本になるのが禅者なのです。



只を智恵で知って、この知ったと思う気持ちを建て前にして自分と他人を比べてみたくなる。
本当に自己が無いのなら相手を見ることができます。法友に会えば法友となり、母に向かえば母になる。本当に只管に成れないと味わいが無く、いたずらに只管を振り廻して自他の見が出てきてこの正法を汚すことになるので大きな罪を作るのです。只管を振り廻し、相手を認めるのが法我見です。只管を実地に踏んで行くのが禅者なのです。だから転(うたた)悟れば転(うたた)捨てて、只を繰り返して差別に生まれ切るまで大いに練るんです、単を練るんです。
皆単を練ることを知らない。正法を重くして、自分の悪い癖は自分で取るようにしなさい。そうしないと人に遅れを取ります。とにかく皆法だから何をするのも同じであると言うことは至り得た人の言葉です。未悟の人は我が侭に陥る時を惜しんで一生懸命やらないと兎と亀のようになります。とにかく頭で考えた事は一切不是なりと決心して、只如法に従っていきなさい。
これが少林の宗風なのです。



無理会とは読んで字のごとく理会が無いと言うこと、理会するなと言うことです。
理会するから賑やかになるんです。理会が入らなければ何も言うことはない。無字の一句に別に工夫なし。その無が問題よね、皆有意でしょう。有がなかなか賑やかに出てくるので、あれが出てこないようになるまで只管を練るんです。理屈が入る間は駄目だと自分で思えばいいんです。
「それじゃ手を付けず、そのままにしとけばいいんだ」と言うふうな理屈が今度は出るでしょう。あまりにも簡単すぎて何かこう講釈を付けたがるんです。これが坐禅を真剣にやっているとその真実が自ずから明瞭に成ってくるんです。
まあ根気を詰めて一心にやることよね。別に理会は無いとある以上は、何が出ても理屈が付けば「ああこれが悪いんだ」と言うふうに理屈を捨てるようにしなければ賑やかに成るからね。それがちょっと気が付くと理屈を付けてこうじゃ、ああじゃと言いたくなるのよ、賑やかにね。そうじゃない、それがますますいらないことなんです。



易しいようであるがなかなか難しいものです。何が難しいかと言えば、自分の感情を切る事が難しい。何も難しいんじゃない、自分の感情を切ることが難しいんです。愛情と言うものは何物をも問題にしないで固執して行くから、その一番強い愛着をまず切ると言うこと。この愛着と言うものが如何に物の迷いの種であるかと言うことです。
付いて回りさえしなければ迷いはしないからね。親子の縁、夫婦の縁、こうした感情と言うものは切れたようでもなかなか切れない。大燈国師はそれを切って、そしてこの道に一身を捧げられたからこそ、日本では大燈国師の右に出られる人は無いほどの力量なんです。だからささたる事で満足はされなかったんです。これが大事なんです。
皆はちょっと気が付いて道理が一つ分ると、すぐ道理を振り回す。皆やりますわな。そんな小さい味わいのものじゃないんです。真剣にやればそれが分るんです、子供でも、年寄りでも。要するにこの一息を一心不乱にやることが大事なんです。



菩提心とは度衆生心なり。人を度して行くことは菩提心の根本理ですけれども、根本を自覚すると言うこの菩提心が第一なんです。この根本を自覚するのにはどうしても釈尊のなされた打坐を中心にやっていただくわけです。これをやると嫌でも真実の仏法に到着するのです。
やはり自らが努力して行かないと実は実らないんです。何をするのでも一心に、菩提心に回向して、大いに努力していただきたい。箸の上げ下ろし、一歩、一歩、皆その心で歩まれますとそれが皆生きてきます。坐禅する時だけが菩提心でなくて、この行動、自分の作務、何でも成すべきものの上に単を練って行きます。
菩提心は単の異名だと思われたらいいですね。菩提心は余念のない、二人連れでないと言うことを念頭において、そして一心に何事に対してもやっていただくと、それが皆活きてくるんです。道であることが分るのです。



三昧になると言うことは余念を入れないと言うことです。平凡なお話ですが、道は平凡より他にないんです。
それが、只管打坐、菩提心と言うふうに名前が変っているだけで、この平凡さが皆分らないんです。何かこう難しいような、容易でないように皆聞かされているものですから、殊更自分が容易でないものだと決めつけているんです。そうじゃないんです。いとも楽にできるんです。
それで安楽の法門なりとあるんです。そう言うことを忘れないで時々、歩々、余念を入れないように一歩、一歩、単調に成ってやってみてください。
仏書を読んだり、提唱を聞かされてくると皆難しく考えてしまうでしょう。そうじゃないんです。あまりにも易しすぎて難しく取ってるだけなんです。できる限り単になる、余念を入れないと言うことに努力して実行していただくと必ず自覚する時があります。



我々が日常やっていること以外にものを置かないように。何も無い時は何も無しでいいのです。只単に成り切って、そうしてその物のみに余念なしに行くのが修行なんです。これのみに渾身を打込むことを練るんです。
聞いたのを覚えたり、そしてそれを忘れないように持っていたり、提げていたりするとこれが皆邪魔をすることになる。何時もからになってお願い致します。大広間のごとく何も無しにこうあるほうがいいんです。何も無いから何時でも何でも入る。何かあるから入らない、邪魔になる、蹴つまずくことになる。
だから禅は大広間に何も無いものとこう見ておれば何でも入ってくる。何でも邪魔にならないでスム−スに行くんです。そうしますと自然気が楽になります。気分が楽でないと安楽の法門にはならないでしょう。安楽の法門が即ち菩提心ですからね。
だから気分を努めて楽に、楽に持つようにして下さい。これが単なんです。だから単を練らなくてはいけないんです。



参禅者 単調になるとはどう言う事ですか。
老 尼 余念が無いと言う事です。何でもやっている事自体だけに成れば余念が入らないはずです。余念が入ると言う事はそれ自体になっていない、誠一つでないと言う事の証と思えばいいですね。
余念無しに行くと嫌でも単調に成る。自分の本性が単調なんだから、単調の性質を養うと言う事が仏道の根本理なんです。心が何かクシャクシャしていますと鮮明にならないでしょう。
だから坐禅をするときには坐禅だけでいいんです。それ以外のもの、覚えたり、聞いたりしたものは皆持ってこないんです、皆邪魔になる。坐禅の本旨は只単を練ると言う事にすぎないのですから。単を練ると言う事は余念無しにそのもののみに成っていくと言う事だけです。



参禅者 単になれば、物が多い少ないと言うことも関係ないんですね。
老 尼 単だからね、物が多かろうが少なかろうがそんな事には関係ないんです。多ければ多いまま、少なければ少ないまま。只その場、その場の単に成って行けばいい。
どうしても比較をするでしょう。それは心の中に対象物があるからです。つまり、単でないんです。心に何も無かったら比較する必要が無いでしょう。
要するに単を練るのが主旨なんですからね。家庭にあっても、職場にあっても、何処でも練れるんです。それが菩提心です。菩提心は余念の無い事ですからね。余念と言うのはその物以外に物を認めて行く、それを余念と言うのです。
だから何にでも只それのみにあれば何時も菩提心の模様されるままに活動して行くことになるんです。ふいふいと出て邪魔をするものがあるんです。そこをよくよく気を付けて行かないと何十年掛かっても駄目です。



無常ですから瞬く間に時が過ぎて行く。どうか瞬時を軽率にせず一心に練って下さい。
修証義にもある通り「受けがたき人身を受け、遇い難き仏法に遇い奉れり、徒らに露命を無常の風に任すことなかれ。命は光陰に移されて暫くも止め難し」とある。何時の間にか時が過ぎて行く。
だからその場その場の時を大切にして一生懸命やらなければいけません。今日がなきゃ明日があると言う悠長な気分ではとても大法は得られません。今、今と言うことすらも「いの時くれば、まの時は去る」と言って、今と言うことすらも真理の時間には今なんですからね。
そしたら常に今、今と言うことで何をするにもその気持ちで自分の心を叩くんですね。人の法ではなしに人々の法だから、仏法は常に充満しているんですが、人々がそれを知らないんです。
だから人々がその心を味わって常に今、今の世界に自分を打込んで行く。眺める今ではなしに、味わいの今ですからね。



無上甚深微妙法とある。それは無上の法で上がない、差し障りのない今、言葉では出せない今なんですね。それを一心にその物に自分を乗せて行くのである。行くと言うと語弊がありますから、行くのではなく、今、今にある。
そう言うふうに切実に自分を持って行く。常に切実に自分を持たないと気分が緩やかになり、今日がなければ明日があると言うことになる。事実そうなんです。そう言うふうに常に自分を急き立て、急き立てして行かないと何年経ってもこの道は成就できません。物を知り、そしてそれを覚えて行くのではなく、体験して行くのです。
今を体験するんだから、今を大事に、「今とは那辺の心を言うんだろうか」と今を切実に以て眺めて行かなければいけない。この切実さがないから悠長になるんです、理屈も出るし。まあでき得る限り切実な願心を持って今に参じるんです。参じると言うとまた語弊が出ます。参じると言うと相手を見ての言葉のようですが、そうではなく、今になるのです。


接心提唱
この少林窟は仏の実習道場です。
仏とは即ち只なり。そこで何でも只を主体に一心不乱に只々やって下さい。
一心何事かならざらむ。
我々は凡夫だからと云う方が在られるでしょうが、これは仏を殺す事になります。
仏といえども凡夫といえども言葉のあやもようです。言葉に迷うてはいけません。
只は凡聖を離れた、否超越したものを名づけているのであるから、只ほど尊いものはない。
食事の時は只喰らえばよろしい。放尿の時は只放尿すればよろしい。眠る時は只眠ればよろしい。
こうした一切の縁に只々練るとき、自然に本当の只に達することが出来る。つまり本来の大自然にめざめるのである。
何事にも努力あれかし、是れ即ち菩提心なり。
                     窟主
                  (大智老尼)


只は仏の世界ですから考えるものではありません。
縁に応じて「只」あるのみ。
どうせ死する身なれ一心不乱におやりなさい。
本当の自然は何も入りようがない。
それをあれこれ考える為に不是なり。努力々々
菩提心は努力心なり。
一心不乱に考えることをやめること。これが修行にてほかには御座いません。呵々

    思わじと思うも
        ものを思うなり
    思わじとだに
        思わじな君
                 参

 昭和五十三年三月三十日
 春期大接心によす
                     窟主
                  (大智老尼)