禅の心 禅語の世界

井上希道


応無処住而生其心  まさに住する処無くしてその心を生ず

我々の心は朝から晩まで感じたり思ったり笑ったり怒ったりしている。しかし、その様な作用は確かにその時にはあるが、何処にも、どんな作用も固定し安定的に存在してはいない。苦しい思いは確かにその時はある。がしかし、それがどこから生まれ出てきたかと言うことを詮索しても、出所はない。また、何処へ消えていったのかと訪ねても行く処などはない。実体が何もないからである。「その物」つまり「縁」に依って出合った瞬間に現れる。この得体が知れない霊体が心であり、その時、その場、その縁に触れたとき、忽念と出現するが、また縁に従って忽念と消える。心も元々空なのである。心とすべき物など無いのである。初めから執着すべき物も心も何もないぞという、金剛経の銘句である。
禅修行はこの心を解明し大安楽・大歓喜・大慈悲心の人となって世界を救っていくのが目的である。従って応無処住而生其心の真意を体得すればよいのである。この句で最も有名な逸話は、「六祖大鑑慧能禅師」に纏わるものであろう。孝行者の慧能は裟婆往来五百生と言われている生来の大器であった。師無くして既に端的の境界を得ていたのだから並の者ではない。自己なくしてその物に徹していたと言うことである。毎日焚き物を売って母と暮らしを立てていたから、その日もまたお得意さまの処へ出かけた。そこへ托鉢の雲水が立ってお経を読み始めた。この一瞬が慧能の人生を決定的に変えることになったのである。只聞いていた慧能は、この「応無処住而生其心」の句に触れた途端、決定的確信を抱くに至ったのだ。「正しくその通りだ!」と欣喜雀躍したであろう慧能は、早速その雲水に色々尋ねた結果、遂に母親と永久の別れをして五祖大満弘忍禅師の元へ走ったのである。これが後に六祖大鑑慧能禅師となる危機一髪の因縁だったと聞けば、目にも耳にもひとしおの感あるべきものならんか。六祖慧能は本当に祖師の中の祖師である。自らこの応無処住而生其心の端的に向かって、慧能とは畢竟誰のことぞと切に参究せよ。若し或いは眼光落地之風光を得ば、閻王も如何とも致し難し。


真空妙有  しんくうみょうう

我々の全体、見聞覚知である眼耳鼻舌身意によって色声香味触法と作用する。人生とはこの上の様に過ぎない。心にしても味一つにしても、どこからともなく、その時、その縁に従って現れ、縁に従ってどこへともなく去っていく。そして何れの心も、何れの味も、何れの物も、何れの音も、決して止まっては居ないし、止まっていたら作用と作用とが重なり合って大混乱を起こす。そういう不都合なことは決してないのが自然であり、元々その様になっている。とにかく一切が縁の世界なのである。その他に何物もないから、縁次第で自由自在に何にでも成っていく。これを真空妙有と言うのである。
我々は生まれてより知恵が付いていくに従って言葉を覚え概念を形成し、思想や理想という観念現象を築き、これらを安定的に固定して精神の構造を構築してきた。それは自我の形成と同時にこだわりの世界でもあって、その限りでしかない。この実に不安定な精神に基づいて行為し人生を構成している。観念とは精神現象に過ぎないから虚像であり、それ自体絶対に存在しない世界なのである。その事が本当に分かった時が悟りである。以後自分の心に迷うことはないのである。が、この大きな真実の世界に目覚めない限りとらわれの元を解決付けることは出来ない。つまり、何もないところから総てが生まれていて、我々は既に自由自在に生活している、この本来自然の働きのすばらしさ、無限性に目覚め、時々自信と満足の人生を楽しんではどうだろう。されど、修行なくしては有り得ないことを強調しておく。真空妙有とは仏性の消息であり働きである。仏の境界と思えばよい。誰もが本来この存在なのである。


心外無別法  しんげむべっぽう

心のほかに別に法はない、又心の外に別の法はない、と言う当たり前のことである。という事は分かり切っているはずである。だからどうしたのだ? と言われたら大いに困る。がしかし「法も又空」ともあるから、その事が本当に分かっていなければ只の屁理屈だから、頬がねじれるほどの平手打ちを喰らわすがよい。とにかく仏法をしきりに説きながら「別に仏法無し」などと言う。禅者ほど人を篭絡する言い方をする者はいないので、うかつに言葉について回ったらとんだ目に遭う。とにかく言葉について回ったら一生観念現象の奴隷となって朽ち果てねばならないから、本当に救われたいのであれば絶対にそれはしないことである。これらの言葉はそのまま事実であり真実であるから正に仏法なのである。端的そのものである。説明の余地がない世界を端的と言う。だから心外無別法は心外無別法と言うしかない。これほど確かな真実はないではないか。そうは言われてもさっぱり分からぬではないか! と言うに決まっておるようにも思うので、蛇足を付けて少しほど端的を汚すことにする。
我々は直ぐに分かるとか分からぬとか詮索をする生き物である。言葉について回っている証拠ではあるが、その前に「心に持ち込み、固定的に認める」ことから問題が起こるのだ。どうしてそんないらんことをするのかというと、自己がたっていて相対化しそのものと隔たっているからである。だから付いて回ることになり、そのことから問題が起こる。元々心とすべきものもなく、心でないものもない。縁に従って忽念として現れるが、また忽念として無くなる摩訶不思議な霊体なのだ。にもかかわらず行為の全般この得体の知れない心によってなされているのだから又々不思議千万ではないか。そうした事柄の機能も作用も自然のもので、殊更に取り上げるべきものなど決定的にない。即ち認めるべきものなどは無いと言うことなのだ。では認めなかったらどうなるのだ? 別に意地悪でなくてもこう聞きたいはずである。心外無別法とは一足す一は二と同じくこれ以上どうしようもない確かなことなので、言わぬが花である。目に花がある。目が自らを目とも思ってはいないし、写して居るとも言ってはおらぬ。縁に従って是の如く只ある。花がそこに現成している。既にそれがそれと現成しているのだからどうしようもない。喋って言葉になったものは引っ込めることが出来ないと同様に、そう現成している今の様子はどうしようもない世界なのである。これが法である。隔てが無くなるとその様子がはっきりする。花と現成するとは、目の花であり目花が目花を現じているのだ。花と同化しているから自己は無い。自己がなくなれば総て自己成らざる物は無い。自己のない本来の自然を法と言うている。問題を起こすのも心ではあるが、問題を解決して本来を取り戻すのも心である。心の心とすべき物が無い本当の自然を体得するための坐禅であり修行である。本来法そのものであったと言う確信をもたらせる大自覚が悟りである。心以外に法も無く宇宙もなく一切無いのである。若し、「無い」に惑乱されることあらば尚門外の漢。心外無別法の前にあっては礼拝しかないぞ。


日々是好日  にちにちこれこうにち

最も一般化し広く愛されている禅語である。愛されるには何れの場合でも理由がある。世間の日常は対立的であり、あらゆる感情や損得の心に振り回され続け、本当の平安と言うものを享受することはなかなか難しいものだ。そうした不安定精神であればこそ、心の片隅に於いては本当の潤いと平安を願っている人間性がある。そのこと自体が生物としての自然な要求であり、命自体の指向性と言ってよい。つまり、本来が既に平安を願っている存在なのだ。どんな生物でも危険からは避けて安全で安らかな環境を選ぶ。人間だから平和を願うというものではなく、生命現象を営む上でより安定条件の方が快適に決まっているからであり、生命維持のための本来の働きなのである。この語の魅力は、更に自らそう有りたいと祈る尊い人間性を引出してくれるところに大きな特徴がある。
宗教や禅は絶対に消え去ることはない。それこそそれは、人間が求め体達したい究極の人間性であり願いであり、救いの世界であるからだ。
さて、如何にすれば日々是好日という境界に達することが出来るであろうか。
まず、知足安住することが第一である。即ち、自らの分に安住することである。何時・何処に安住するのか? それはこの時・ここでしかない。今はいつも今である。ここは常にここである。不必要に比較分別しないことである。それがそれなら、それをそれとするしかないではないか。比較対立しなければ、常にそればかりの世界であり是非を越えている。気に掛かるものは何もない。自然に不足が無くなり、足ることを知る。この快適な心境を日々是好日と言う。釈尊曰く「知足の者は貧しと言えどもしかも富めり。不知足の者は富めりといえどもしかも貧し」とのたまえり。物金を貪り続けている者に、どうして日々是好日が有り得ようか。貪りの心は、献身的になることで超越することが出来、社会や弱者に喜んで布施することで自己改革が出来るのである。要は、自ら本当に日々是好日の境界を求める精神の高い文化性が有るか否かである。祖先や社会に感謝しているか否かである。選挙の一票が責任と理想の結果か否か、損得か否かである。風流ならざるところも又風流の境界は、日々時々の努力からである。何事に出会っても、日々是れ好日、風流ならざるところもまた風流、と言い聞かせ、自らを高い精神へと導く生き方をすることである。
支那に皆喜禅師という人ありき。何でも「好し好し」と言うに名付く。雨が振れば、「雨も好し好し、本が読める」。晴れれば「仕事が出来るから好し好し」と。親しき人来たり。「家内突然死せり」と泣いて告ぐ。師曰く「それもまた好し好し」と。「それは余りにもごむたいではないか」と。師曰く「汝のその言も又好し好し」と。日々是好日とは、風流ならざるところも又風流の境界がもたらす大安楽底なり。過ぎたることは善悪共に過ぎておる。要は本当の即今を本当に生きることである。今を本当に生きるとは、過去を本当に過去たらしむことである。


人生無常一瞬夢  人生無常 一瞬の夢

説くに及ばず。自ら切に良く見よ。


無 む

何と言ってもこれほど世界を騒がせている文字はない。たったこの一字のために、どれだけ多くの修行者が油汗を流し、苦心したことか。ここにおいて禅の世界が文字ではないことが分かるであろう。そもそもこの「無」が天下の宝探しの鍵となったのは、あの趙州禅師が発端である。その元があの有名な「狗子(犬)に仏性が有るか、無いか」と趙州禅師に問うたことからである。お前さん、生きているのか、死んでいるのか、と問われたらどうする。趙州禅師はただ「無」と答えた。ところが、別の修行者が同じ質問をしたら「有」と答えた。文字の概念で言えば決定的に矛盾している。概念というものにくくられている限り知性は迷い、且つ判断を下すことが出来ないために限りなく苦しむことになる。判断とは概念の統合化であり結果的には単純化である。どちらかであれば世間の人は誰もが納得するところである。迷うということは、概念(何何だと思い込み、意味付けすること)の虜であると屡々言ってきた。どういうことかと言うと、この「無」を無いという概念でしか理解することが出来ないはずであるし、同じように「有」を有りと理解するであろう。こうした概念は生まれて言葉を覚え始めた時から自分の世界として作り上げてきたものだ。であるからまさしく一般の人にとっては、概念こそ自分の存在そのものなのである。ところが概念とは観念現象であり知性の働きの元であるから、一つ事柄に対して、同時に有ると無いとの両極方向を求められると、知性は働く事が出来ぬ。無を認めると有が死ぬし、有を認めると無が死ぬという相殺関係にあるからだ。だから迷うのだ。趙州禅師ともあろう方が矛盾しているはずがない。初めから言葉の世界には禅師は居ないということなのだ。
つまり禅師は「無」にも「有」にも居ないのである。それでありながらそれを越えている世界がそれである。それが「悟り」である。この「無」も「有」も悟りそのものの世界であるから、概念での有る無しでは決してないし、又分かるものではない。つまり完全なる超越を、たったの「無」「有」の言葉で片付けてしまったものだ。そこで本当に知性の束縛を離れ、只「無」ばかりになって全自己を「無」に淘尽し尽くせば、そこが本当の「無」の世界と現成して、趙州禅師の隠れる世界はなくなる。悟りの一大事因縁は個人の所有すべき世界ではないからである。又、般若心経に幾つもでてくる「無」もまた同様に超越である。
さて、趙州禅師に話を戻すと、設問自体が腹に一物あるほどの修行者の問であるから、うっかり有るとか無いとか言おうものなら、顔が腫れ上がるほど「ばし!」とやられたであろう。趙州禅師は逆に、こいつの修行はどこまでいっておるかな、と引っ掛かり易い有るとか無いとかという相手の言葉を借りて、相手が問いだしてきた舟の上で、概念の超越即ち自己超越がどれほど進んでいるのか、そっと様子を伺ってみたところだ。
禅の指導者は悟りを得させることしか目的はない。如何なる場合に於いてもその事として対応する。だからそうした質問への答えは、決して概念での解答ではないから、言葉上の有るとか無いとかにはならぬ。禅問答が一見不透明で、且つ矛盾的言語を駆使しているのもそのためなのである。
山は山である。九九元来八一である。ならば「無」とは如何。「無」はただ「無」である。露堂々ではないか。頭ではその事が分かっていても、疑問が残る。残り物を徹底的に脱落させると、その事が本当にそうだと決定(けつじょう)が付く。「無」が「無」であるほど確かなことはないし、それ以外の何ものでもない。何も理屈がないところが「無」であるということなのである。何か有りそうに思うから色々知性的に、理念的に概念の探索をすることになる。過去の産物である概念から観念現象が始まり、精神の総てが騒動を起こして苦悶することになるのだ。
この「無」の字一つを本当に解決付ければ、人生の総てが解決するということが分かったであろう。
   無と言うも あたら言葉のさわりかな 無とも思わぬ時ぞ無となる
   思わじと 思うもものを思うなり 思わじとだに 思わじな君


無心 むしん

一般によく馴染んでいる禅語である。無心と言えば「何も考えない」こと、と思いがちであるが、受験勉強などで無我夢中の時、思わず数時間が経っていて、何か不思議な充実感のようなものを味わったことがあるであろう。時も無く、自己も無く、善も無く悪も無く、勉強も無く、好き嫌いも無く、一切無い。あれが無心であり、一心であり、なり切った状態である。ただし本当に徹底していないから、無心の絶対力には成らない。そこが悲しいところである。本当の無心とは、その事ばかりになって、外に雑念が無い純粋な精神の様子であることは分かったであろう。
何故この無心が尊いのかと言うと、心に邪悪なもの(俗欲、妬み、怒り、差別、愚痴など)が一切無く、極めて美しく、完全に善であり真実であるからだ。つまり、知性や概念のカプセルの外に居るからである。そうした束縛から脱して、純現実の世界にいるということである。無我と言うも無心と言うも、三昧と言うも解脱と言うも脱落というも、又涅槃というも彼岸と言うも仏性と言うも仏法というも、又空と言うも、悉く言葉が異なるだけで、この単純の極の、一つ世界を言っているに過ぎない。
花無心にして枝を離れ、枝有心にして落花を送る。
この語、よく味わうべし。有無に捕われず、素直にあることである。自然の自然たるところは理屈が無いことにあるので、只読むが秘訣なり。心を用いず只読む。これを無心の眼と言うなり。皆見えるぞ。俗語の「御無心」はねだることや無理を承知で借金などを申し込む事に使われる。あつかましい醜態は、げに無心でなければ出来ぬものだ。


無理会 むりえ

理会とは理屈である。無理会とは理屈なし。理会することは当然観念現象を巡らせることで、迷いを引き伸ばしているに過ぎない。修行とは無理会のところを修得する努力である。理会することは我々人間として知性の働きの命であるから、これが悪いなどと言われたら人間を止めなければならない。かといってそれで人と人、相和して信頼し助け合い、殺戮はおろか搾取も何も無い完全に近い存在足り得るか。不安なく爽やかに生活できるかと言うと、それこそとんでもない現実ばなれであろう。何故か。それこそ生き物として過去世からずっと引きずってきている潜在性動物本能があり、生命現象として備っている生命維持本能によって、敵を嗅ぎ分け、警戒心が疑心暗鬼となり、疑い、騙し、搾取し、又攻撃する力を皆が持っているからである。又、知性や理性は理想や欲望を増殖させ、自己実現のために精神をすり減らした日々を送っているのが現実である。
生き物として等しく平安でありたいという願いも又皆等しくある。だとしたらこのままで自然だなどと言ってはおられないではないか。
そうした願いから修行が始まっていく。具体的に修行に入った時、捉われの元を解決付ける方法が必要となる。どうしてみても自分の精神であるから、どこから切り崩しにかかってもよい。即ち、作用する時は常に「今」の「瞬間」であるということ。だから時間軸から入ってもよい。一瞬を見失わない努力である。また、瞬間に「作用」するのであるから、「作用」の束縛を解くためには一瞬に起こる「作用」したもの(雑念)を直ちに発見して直ちに切り捨てる努力でもよい。より早く捨てることで、次第に念の出始めに達してくる。遂には念が出る瞬間がよく分かるようになる。それを押しまくっていると何も出てこなくなる。只静かに、純粋に坐禅が出来るようになるのもそこからである。ここからが本当の禅修行が始まって行くのだ。
無理会とは、こうして雑念のない本来の世界を言う。坐禅はこれを指標に努力するのである。瞬間のみになり切って、本当に我を忘れた時、忽念として概念の殻が破れるのだ。同時に自己が無くなり、大自然の無限大の光と現成するのである。これが本当の悟りであり救いであり、我々の心の本来である。命を懸けて獲得する価値が有るのである。
「無理会の処に向って究め来たり、究め去るべし」と我が道場の菩提心訓にあり。元は大燈国師の遺訓より来る。


空 くう

一番問題視されているのがこの語である。仏法を一言で言うとこの「空」である。お経は空の説明だと思えばよい。総て一定の固定した中心というような物はなく、また理論的なものも無く、縁次第で何にでも成っていく自在さを言うたものだ。もっと言うなれば、原因があれば必ず結果があると言うことで、因縁次第と言うこと。これが宇宙の姿であり、厳しい掟である。我々が既にその存在である。心身共に空であるから、朝から晩まで因縁のままに自由にやっているではないか。物理的時間的関係性であるが、とにかく縁そのものを展開していて、他に別段なものがあるわけではない。畢竟そのものを空と言う。我々は一瞬一瞬空の活動体であり、空の人体実験であり、空の実証を繰り返しているに過ぎない。又、空と言うものが有るのでもない。空も又空なのである。一瞬だけの世界であることが本当にはっきりしたら、空であることも分かるし、空もないことが解る。一瞬の世界とは、見るそのものの世界。聞くそのもの。次の世界は次の世界であって、一瞬前の世界は既に消滅して無い。無いのではなく結果として今となっている。だから、完全なる現実の一瞬とは、完全なる結果の消滅の世界である。
「薪が燃えて灰になるに非らず、薪は薪の法位に住し、灰は灰の法位に住す」とは彼の道元禅師である。
我々の人生とは、畢竟眼耳鼻舌身意が色声香味触法として一瞬一瞬展開しているだけの事である。これをしても空であることが分からねば、どうしても哀れと言わなければならない。今生に縁が無いからである。


露堂々  ろどうどう

これは禅の指導者が屡々用いる常套語。その用い方はぎりぎりの局面を示唆しようとして使う言葉である。人生とは何かと問う。露堂々。人生々々と言うが、是れが人生のエキスだというような特定すべきものなど何も無い。総てその時その場の在り様ではないか。総てが既にそうではないか。それ以上のものもなく、それ以下のものもない、それがそれでしかない即時的局面こそ究極的存在である。哲学的に成文化すればこれで一応の答えであろうが、この様な一枚ものでは禅の世界とは言えない。何故なら、文章で筋が通り知的に理解できたとしても、体得され救われた世界ではないからである。事実としての確かな即時的局面であり、その事自体が究極的存在であるというのは道理に過ぎない。即時的局面の究極的存在が本当に分かっているか否か。そこからが禅の世界となるのである。つまり、その世界を確かに体得して初めて絶対自信となり救われた世界であるから、この実体を知っているか否かが決定的問題である。この事を問い詰めて、
「さあ、その世界を、今、即、この場に出してみよ!」
「露堂々!」
どこにも隠したりしておるものなどない。ほら、目前の様子が解らぬか!
と言うところである。前後のない本当の事実の世界は、一切理屈が存在しない。即ち、自己がない。そのことが明確であればよい。ここからが学者の泣きどころであり、ここが禅家の専売特許である。言葉や理屈では絶対に分からぬからだ。露堂々とは、直接直説で、最早説明や理屈の挿む余地がないぞと教えているのだ。言語道断である。山これ山である。川これ川でなくて何だ。これを露堂々と言う。既に決着つきで、他に求める何物もない。その確かな消息が露堂々である。一瞬一瞬の様子である。様子のまま脱落底を言う。疑問の余地なき消息故に、山河大地である。
究極は、今、確かにそうあること自体である。生きた本当の人生がそれである。食べる時、食べる以外の何ものでもない。その時、それがそれである。自然のあるがままである。この自然法爾を露堂々とは言うのだ。苦しい時は苦しいのが真実であり道である。苦しむ時節には、ただ苦しめばよい。それがその道であり真実である。その時の全体であり外に何ものも無い。全体が露堂々であり道ではないか。手が着かないのが露堂々である。道元禅師曰く「道本円通、いかでか修証をからん、宗乗自在、何ぞ工夫を費やさん」と。目は物を見、耳は音声を聞き、舌は味を感得し皮膚は冷暖を知る。その多彩な係わりに付いて回り、色々理屈をつけ、思索を加えるから、何が本質やら根源やら分からなくなっているのが一般である。その人を衆生と呼び、迷っているから仏が哀れみ悲しむのだ。
自由自在とは如何? 露堂々。人に問う前に、明らかに自分の口で喋って、他の何等の力に依存していない自在な働きが本来あるではないか。起きたか? 洗顔を済ませたか? 糞をたれたか? 問われるまでもなく、皆自然の働きとしてちゃんとしている筈である。何処に理屈や迷いがある。それが道であり、思い煩うことはないではないか。それが露堂々である。人生とは如何? 露堂々。そのものを無視して、外に何を探し回っておるのじゃ。古人曰く「他に向かって求む、癡漢々々」と。無いものを求め回るは愚の至りじゃとなり。目にはちゃんと色形総てがあるであろう。目のままが露堂々よ。人と語らい、自然を楽しむ。口のまま、耳のまま、一々露堂々ではないか。これほど眼前に明らかなのに、何故自ら理屈に捕われて今を失脚し、馬鹿な苦しみをするのだ。素直になれ、理屈を捨てよ、ありのままをよく看よ、という極めて親切な直説の説法である。語り尽くして出ず東天の月ではないか。何が不足で理屈を付ける! 馬鹿目が! という言わず語りも慈悲なりき。この一句、実に有難いではないか。人が是と言い非と言う、そのいちいちを露堂々の当体として実地に味わってみよ。思わず歓喜する時節がある。参。

喝 かつ

禅語の代表的な言葉として、無、三昧、無我、見性、公案、大悟、と言った一語二語から、大変多くの言葉を連ねて意味深い表現をしているものまで沢山ある。言葉自体を声に発して使う代表的なものに「喝」「無」「露」「関」等があるが、この「喝」こそ、最も力強い決定・言語道断・一切撃砕・喪身失命せしめ大悟に導くために、大音声する語である。「カッ!」。脳天に風穴を開け、見えない拘りの鎖を吹き飛ばし、即安楽に導き救う活きた道具である。だから小声では喝の用をなさぬ。満身の気迫と共に、岩をも貫く鋭い発声でなければならぬ。
中国に馬祖道一禅師という抜きん出た禅師が居られた。巨匠には巨匠の弟子が居るものだ。百丈懐海という。百丈の兄弟弟子に南泉という偉い弟子も居た。百丈は師匠と共に川を渉る時、鼻を思い切りねじられて悟った。ところが悟りはしたが日常が悟りの通りにさらさらいかぬために、再び師匠の元へ修行に来た。例によって息の詰る禅問答が始まった。色々あった後に、師匠の物凄い一喝を喰らった途端、百丈は三日唖のごとく、聾のごとく、一切の分別を失って自我の残り物がすっかり脱落し、真箇の自由を得たのだ。遂にあの黄檗宗の祖 黄檗希運禅師を生み、黄檗禅師はまた臨済宗の祖 臨済義玄禅師を生み出したのである。巨匠の一喝を蒙って悟ったものは頗る多く、歴史的活躍語としてまさに特異な存在である。
我が国固有の、あの五山文化が生まれつつあった頃、時の天皇御醍醐帝は相当の禅定力を得ていて、世を治めるに仏法の大乗精神を旨としていた。百花が咲かんとする時必ず余物もはびこるものだ。南禅寺・大徳寺・妙心寺・天竜寺・相国寺等殆どこの時代の前後に創建された禅の名刹である。それまで厚い庇護を欲しいままにしていた他の寺僧から、不足の申し立てが起こるのは世の常の事。しかも戦乱であった。これを公平に治めんとて、帝は公然と是非を下すべく御前法戦をさせた。禅対既成宗教であり、時に詭弁の論理をもって京洛を駆逐していたウルガン・バテレンなる耶蘓も居た。先ずは大燈、若干二十四五才と雖も釈尊直系の実力者。悉く撃破す。恰も石に卵を当てるが如し、とある。最後に耶蘓のウルガンバテレン、刀を抜いて大応国師の胸倉を掴み、「生死交錯する時如何!」命を取られんとするこの時、どうする! と激しく詰め寄った。返答次第では突き殺すぞの勢いなり。まさに命懸けの法戦である。南禅寺の長老大応国師、微動だも無し。威を奮い、目をむいて大喝一声、「喝!」とやった。さすがのバテレン卒倒したと言う。
また、或る殿様が世間で高名をはせたる禅僧を試さんとて城に招き入れた。一席を設けて親交を結ぶ手始めの礼を尽くす。いや、合格すれば帰依する腹であった。盃を手にした時、間近にて天地を裂く程の大砲を打たせた。禅師少しも驚かず、「あれは何事ですかな?」と、とぼけて聞いた。「武門に於ける挨拶で御座る」と殿様もとぼけた。次に殿が盃を持った瞬間、「喝!」と耳元でやった。殿様は腰を抜かして盃をぽろり。「いきなり何事で御座る!」と失敗を相手の性にしようとした。禅師曰く、「どうかしましたかな。単なる禅門の挨拶で御座る」と。これより恥じ入り、且つ敬服して深く帰依したということじゃ。良き師を得て名君となったとか。
しかし、言葉は単なる音に過ぎぬ。修行もしてない者が、妄りに真似をして人に向って吐けば、地獄に落ちること矢の如し。命懸けで体達した越格の力量底にして初めて活語・活文字となることを忘れてはならぬ。
若し、うじうじと決断しかねて、そんな自分が歯痒い時、山上にて、或は岸壁にて、試みに丹より「かっ!」と全力を全挙して大喝一声してみよ。いささか爽快となり痛快を得るであろう。されば衆生済度に「喝」を最も多く使ったのも、この臨済大師であった。さもあらばあれ、臨済の一喝みだりに発せずと、古人も臨済禅師の素晴らしい活作略(かっさりゃく)を褒めた。臨済の四喝というて有名な提示があるのでここに録しておく。
臨済、僧に問う。「有る時の一喝は金剛王法剣の如く、有る時の一喝は踞地金毛の獅子の如く、有る時の一喝は探竿影草の如く、有る時の一喝は一喝の用を作さず。汝作麼生(そもさん)か会せん。僧疑義す。臨済即ち喝す」と。どこまでも向こう一倍じゃ。自己が有ったらとても勝てるものではない。総ては使う側にある。それは修行の力に掛かっていることを忘れるでない。


随所作主  随所に主となる

中国の禅の巨匠 臨済義玄禅師の言葉である。臨済宗はこの人を祖として始まった極めて険峻な禅風であり、公案を手法とした禅宗である。「随所に主となる」の後に「転所実によく幽なり」と続く有名な言葉である。随所とは自分の存するところで、何時でも、何処でもという意。主となるとは、それ以上は無いと見ればよい。只見、只聞いて、耳にも目にも翻弄されない力があれば、心は平安そのものである。見る底である。聞く底である。そのものである。自分の主人公は自分でしかない。物や人と対立関係にある人を衆生と言い、人や物、即ち縁と一つになって自己を忘れている人を仏と言う。自我が無いのだから対立すべき相手が無い。宇宙と同時である。世界と一体である。まさに主人公であり、宇宙第一である。この境地を天上天下唯我独尊という。自己の束縛を離れた境界は何ものにも汚されないから、主となると言うも有難きかな。食べる、その味は自分のものでしかない。見る、その世界も又自分の世界である。何者の力も借りる必要はない。随所悉くこれ主となっているではないか! ただ、知らぬ者が自ら知らぬだけである。只、在れよ。自我を立てなければ常に主人公であるぞ、との教えなり。


好事不如無  好事も無きに如かず

こうした語句を境界辺(きょうがいへん)のものという。修行した力が無ければ分からぬからだ。好事とはこの上ない素晴らしい事。心境の事であるから、自分の考えや学問的或はフィーリングといった知的なもの、感情的なものではない。それらは総て頭の計り事であるから、今はそれと区別して見るとよい。心はそんな事では解決出来ぬ。自分の限界を如何ともすることが出来ぬから修行する。その修行の過程上の事だと思えばよい。普通人間とは何故か今までより優れた考えとか気持になると、それを頼りにして握ってしまう依存症がある。それがそのまま他との隔歴となり、それが対立心を強め、自己顕示欲が自己主張を巨大化させていく。それがその人の癖となる。修行者も修行によってそのようになる者が少なくない。
境界第一等と尊ばれている支那の「趙州禅師」に、厳陽という弟子がいた。後に大変立派な境界になるのだが未だ修行中の時、「一物不将来の時如何」。師に対して、私は既に何ものも心にもっておりませんが、どうでしょうかと少し得意気に言った。「放下著」。それよ、そんなものに取りついておるから抜け切れぬ。それを捨てなければだめだ。「既に一物不将来。箇の什麼(なに)をか放下せん」。すでに何もありません。そんな私が、更に何を捨てるのですか、と理屈を言った。「放不下ならば担取し去れ」。そうか、そんなに何も無いと言うくだらんものが好きなら、何時までも担いでおれ、と。この時、この僧、ちょっと大事なことに気が付いた。そうでなければならぬ。
どんなに素晴らしいものでも、それに捕らわれたら自我となる。持てばそれだけ本来に傷を付ける。だから、より自由になるためには、只本来に返ればよい。そのためには本来を汚している、拘りの元になるもの総てを捨てなければならない。


○  一円相

これは一体何であろうか。
○になってみよ。本当に素直になれば何でもないことである。大きな宝を得て、欣喜雀躍とするであろう。そのはずだ。悟りという一大事因縁は、何時、何処で、誰に自覚されるか分からぬ。天下の拾い物だって結構この様な凄いものが有る。ただ、努力なくして得られるものなど祿な物はない。せいぜい貧乏神くらいである。平素より常に心掛けて努力しておらなければ、福の神は通り過ぎてしまう。悟りも縁のものだからだ。今、々、縁でないものはない。縁ばかりになって我を忘れれば本当の今の正体に突き当たり、一瞬にして自然に束縛の見えない鎖が脱落する。悟りの縁でないものはないことを断言しておく。
この一円相もよく使われてきた。杖であれ、一本指であれ、片手であれ、両手であれ、何でも完全に賄えるからである。○一つで世界が治るのが仏法である。如何なるか仏。○。如何なるか仏法。○。如何なるか女の金玉。○。如何なるか無。○。如何にしてか生死を脱せんや。○。
使う人に自己がなければ総て真実である。そのものである。縁自体である。縁にしたがって何にでもなる。自由底の分有りとはこの事である。この一円相○を縁にして自己を脱落せしめ、大自己へ導くための大慈悲であることを決して忘れてはならない。要は本当に徹するだけである。そのための縁にすればよい。総ての疑問が落ち切ると、○は○でしかないことに体達する。つまり、判断作用とか認識・分別といった、あらゆる精神行為の束縛から超出した時が、完全なる救いとなり、限りない世界が開けるのだ。そこが涅槃であり彼岸なのだ。○。


死中在生  死中に生あり

我々が苦しむ時は必ず何かに捕われている。自分で不安の元となる状況などをイメージし、それに恐怖を抱いたりしている場合が多い。自分で作った自分の影に対して色々問題を起こしているのである。捕われとは恐怖や不安や愚痴と言った感情を駆り立てる現象などを想像し心に留めることを言うのである。そこから敵対感情へと発展し、戦争へと波及する。歴史的に言えることは、どの世代に於いても殺戮がある。その元は生命維持本能であり、それは種の保存のための生命現象と言ってよい。と言うのは、二十数億年の間、生物進化はその環境に適合しつつ種の繁栄を計ってきた。人間もかつては天敵に襲われながらも、最もすばやく最も合理的に環境認識をし適応するようになったのである。その能力が知性を発達させて人類にまで達することができた。その長い時間に培われた天敵観念、天敵認識は恐怖という感情となり、常に天敵意識を失わないことが生き延びる条件となったことは、又精神の多重構造化、複合構造化してきたことを意味している。現在の我々の細胞には、その時からの天敵観念が潜在していて、常に相手を想定し、想定することによって恐怖や不安、怒りや防御、攻撃心などを必然的に引き起こしてしまう生来の仕組を潜在的に持っている。皆この事を知らぬ。だから、過度な不安や怒りという感情を刺激し、忍耐の枠を破壊してしまうと、潜在していた天敵観念が顕現してしまい、悔しさから殺すか殺されるかという、動物としての生存本能、闘争本能に翻弄されるのである。あの殿中松の廊下の歴史的刃傷事件もその一つである。一人一人に確実に内在しているこの天敵観念と生存本能を健全に制御するには、高い人間性とモラルが必要である。それが健全で無い限り、総ての悪の根源は一人一人の中に永遠に存在し続けるのである。
人類はそれをどのようにして克服するかを、政治的、哲学的、宗教的、教育的、文化的に追求してはきたが、それが外部条件による力であったり、観念的なものであったり、知性を根源としている限り絶対にそれを超越することは出来ぬ。生命現象である限り、そのような小さなもので克服でき得る相手ではないのである。生命維持本能には、極限状態に於いては親・兄弟・友人を殺してでも自分は生き残ろうとする自己絶対・他否定の精神性が潜んでおり、慄然とする存在確立力を持っておるのである。それが生命力である。根源的にはこのように荒々しいものだということをよく知っておらなければならない。だから生きるという生命現象の一つとして、根源にこのような荒々しく逞しい作用があるからこそ、何時の時代でも、或る特定の状況に達すると、正当化してでも殺し合いをすることができる存在であることを、人間の業としてもっと畏れなければならない。
若しそのような忌まわしい潜在力の引力圏を越え、その力を理想へと還元昇華する方法があるとすれば、それこそそれは最高の道ではあるまいか。仮説ではなく、確かにその道が存在するのである。そは如何に。まとめて言えば、自分の力で自分の一切の過去世を超越するのである。自分を忘れ去ることである。つまり、自分が在る限り過去が存在する。過去は必ず知性を通して観念として働く。その過去が感情や知性の制御範囲内であれば自己コントロールが出来る。が、過去は無限である。野獣性、狂暴性も潜在しているのだ。そうした無限大の見えない世界を、小さな知性や観念力で完全コントロールなど出来るはずがない。しかし、今、現実は人間であり、この瞬間の存在である。過去が如何なるものであったとしても、過去は過去でしかない。過去もその時は現実の今であったのだ。その今が拘りや執着のしからしむる世界であれば、その過ぎ去って出来た過去は、やはり執着や拘りとして未来にずっと続くのである。自己を越えるとは、完全に今のこの一瞬の実存在に成り切ることによって、その確固たる消息を獲得することである。そのことは、知性によってしつらえてきた一切の概念のカプセルから脱出することをいう。これが禅で言う解脱の世界である。そこへ達するための修行が禅修行である。それは後天的な精神や知性が一度死ぬことを意味している。過去の拘りを脱落させるから純然たる永遠の今、瞬間の世界が開けるのは当然で、ここを本来と言うのである。生まれる以前で、何も付着していない天然の様子である。生まれるとか死ぬとかが無い世界なのである。そこはまさしく自由自在の躍動した永遠の世界である。
仏法とはその消息自体を言い、又それがもたらせる大自覚のことを悟りと言うのである。大死一番である。これを「死中に生あり」という。なお、「生中に死あり」と一体であることは申すまでもない。しかし、本来には生死など、認める相は無い。だから空と言う。生も空、死も又空である。少林窟道場の門牌に「この門に入らんと欲せば心を空にして入るべし。心空なれば自在なり」とある。
若し、親しく我に相見せんと欲せば、速やかに一度死んでから出で来たれ。されば相見せん。


莫妄想  まくもうぞう

莫とは「なかれ」と読む。するべからずという意なり。妄想とは念相観の奴隷を言う。留るところを知らず。また帰するところなしの心念紛飛を言う。そこから色々イメージして、自ら不安や怒りや妬みなどを引き起こし、感情に翻弄されて苦しむ。実に苦しむ本は、自らそのように影を作っては、それに対してあらゆる感情を刺激され踊らされている。仏はこれを悲しんで色々と解決の道を垂れ給うておる。野放しにしている精神作用には次の様な特徴がある。一瞬に起こる観念現象は次の一瞬に別の観念を刺激し引き出してくる。しようと思はなくなても自動的に連鎖していくから静まることが無い。従って何が事実であるか、本当の世界であるか、何が妄想なのか、何が空想仮想なのか、どれが観念の世界なのか区別さえ付かないほど混濁しているものだ。
りんごを見る。只見る時は何の観念も無いから、その物との直接一体の関係である。救いも迷いも無い。仏の世界である。言うなれば只それだけである。しかし、知性が介在すると一変に世界が変質してしまう。色々イメージを引き出し連想して、その物の実体とは関係なく、観念の世界で取りざたされていく。それが知性の仕事である。これはデリシャスだからどうとか、青森がどうとかが始まる。何と言うても思っても勝手ではあるが、真実はりんご、ただそれだけである。外に何も無いではないか。露堂々である。それがそれなのだ。なのに空想し色々概念化して事実は無視される。だから議論は幾らでも続く。事実の確証がないからである。それが有りさえすれば、常に露堂々に安住して心は平安なのである。実は戦争も、こうして勝手に空想を逞しくして不安を抱き、そこから疑心暗鬼の虜となり、相手を畏れ且つ憎み、ついには殺し合う事も起こってしまうのだ。
妄想することなかれ。ではどうすることが莫妄想なのか。見る時、満身目になって、ひたすら見るばかりになることである。そうすれば妄想の隙が無い。いずれの場合にも、言葉が全面に去来することは妄想である。事実から遊離しているので、空想で見た積もりになっているだけである。自分のそうした癖は自分で取るしかない。それが努力であり、修行である。つまり、莫妄想とは、理屈を言うな。一心に今、その事になるよう努力せよ、と言うことである。仏法滅べば、世界は忽ち暗黒とならん。闇を照す明りが無くなる故に。だから、だから「莫妄想」と、諸悪の本を一刀一断して、幸せになれよと激励した語句である。何と有難いことではないか。


清寂  せいじゃく

清らかにして静。又静寂の意。苔むした庵の一室は確かに音もなく静かに違いない。それはただ音が無いからだけであろうか。我々が清寂を感ずる時、そこは確かに世間の喧噪を離れ、自分の心臓の鼓動すら、時の足音として深く感得でき得る環境なのである。しかし、それだけでは単に静かな環境と言う事に過ぎない。自然と人間は常に清寂の関係でなければならぬことは当然である。そのためには、我々人間は常に謙虚にして敬虔なる心と、畏懼(いぐ)畏敬の気持ちと、深い敬愛の心を極当たり前の生活に持たなければならない。これが一般社会で生きていく基本の心得である。今日の様に忙しく、経済活動のあるところ悉く文明の際立った利便性と合理性でしつらえられ、完全人工環境に於いてそのことを自覚する事が果たして出来るであろうか。謂わば総て表面的対立的であり清寂とは程遠い世界ではないか。これらを我々人類がなし崩しに作り出し求めたとは言え、果たしてそれでいいのだろうか。とにかく好人生であるためには、環境を含めて今の人生そのものを深く感得する事が肝要である。
自分自身が先ず清寂にして無相定でなければならぬという意である。優しく素直であれば相手立った意識もなく対立することはない。本来総て示寂底なのである。存在そのものには理屈がないからである。若し、是の如く自己浄化された純一にして単調なる心を持ち得たならば、見聞覚知するところの総ては、元の清寂そのものと現成し、柳は説く観音微妙の相と遊戯する。もはや世間の喧噪も、児童の遊ぶを見るが如し。相手が無いほど静かで安らいだ世界はないのだ。
掃き清められて一つの塵も無い庭という自然環境は、清潔にして静か窮まりない。だがしかし、それだけでは活きていない。情操という精神作用の妙味こそ妙味なのだ。無心に身をくねらせながら静に舞い落ちる落葉、そして落ちた自然な配置には限りない侘しさが漂っているではないか。しかし、大自然に侘びしいという感情が有るか無いか。人間の感性だけがもたらせる特有なる味である。そこから聞き取った音が音楽となり、そこに見た心が絵画となり、それを言葉にすれば文学となる魂の響きとで言うべき深い味合いの世界がある。ただ、それも一時の無常の絵巻に過ぎないところが実相なのである。ここの消息をはっきりさせると、自己の感情に翻弄されることが無くなるのだ。只味わってそれに捕らわれざる切れの良い精神こそが最も価値あるものなのである。
微かに響く谷川の流れ。凍てつく夜に降る雪の音は、ただに静かでは尽くせていないことが分かる筈である。我々の感性と知性は、良き環境の元で、自らの高潔性を高め、単純化を深め切った時、必然的に存在その物が根源より消滅した世界に到達する。突然それらは自己消化して無くなってしまう無存在の絶対性に行き着く。そこから働く見聞覚知によって、初めて総ての世界が現れるのだ。そうした宇宙の真理を知らぬから、宇宙の創造主の様な存在を空想し認めてしまうことになる。だから究極的静の世界を知ることができぬし、その偉大さも又分からない。ついに真意義なきままの日送りで生涯が終わって行くのである。とにかく決定的清寂の、この境地こそ涅槃であり彼岸の世界である。人間の知性にては最早届かぬ世界であり、最も高く尊い世界である。本来という自然より与えられた永遠の瞬間であり、不滅の世界を清寂とも言うのである。
この清寂は日々の行持そのものにある。自己の計らいを捨てて、単調に々々々と努力することである。自ずからそこに清寂が現前する。そのことを信じて実行する者のみが得られる世界なのである。


和敬  わけい

我々は不安なく軽快に暮らしたいと願っている。それが自然であり市民生活を営む基本的条件の一つだからだ。ところが世の中は嫌なこと、苦しいことを余儀なくさせられる。その内で最も辛く悲しいことは、殺戮し合うことである。次が裏切であり騙しであり差別であり無視されることである。こうした人間性不在の世に深まっていったら、生きている価値もなければ命の輝きを見ることなく、実に空しい生涯を送ることになる。人間同志が信じ合えないほど、心が乾いて空しいものはないからだ。
反対に一番生きがいを感じ存在感を味わうことは、自らこの身を済度して不変の大自信を確立することである。何ものにも惑乱されることがないほど確かなことはない。次に皆から大切にされることであり、信じられることであり、尊敬されることであり、愛されることである。そして爽やかに意義ある事柄で頼られることであり、己を忘れて理想に向うことである。
こうした世の中にしてはどうだろうか。
簡単である。先ず疑心暗鬼を止めて皆仲良く敬愛し合えばよい。戦争などある方が可笑しいのである。不思議と言えば不思議、当然と言えば当然であるが、どうしてそんな麗しい精神になれないのだろうか。それは自分が賢いからである。何故自分が賢いのか。賢くはないのだが、人に馬鹿にされると腹が立つから、先に人より偉くなっておかなければならない心の貧しさ、卑しさからである。何故そのような詰らぬ自尊心に駆られるのか。それは自我の一つである勝他念があるからである。何故勝他念があるのか。それは生き物として進化してきた過程で、いかなる手段を労してでも生存をすると言うのが基本原則であり本能である。先ずは天敵より身を守り、生存競争に打ち勝たねばならない生き物の宿命が、闘争本能として潜在しているからだ。隔て(相手を認める対立的意識)があると、他に勝ろうとする念が原則的に働いてしまう。自我が最初に働いている限り、自分の理屈で相手の欠点ばかりを見てしまうという、精神の構造の固定的癖があるからだ。つまり、自我がある限り総て自己存在から始まる精神の基本的作動装置に依るものである。そうするとどうしても対立的な精神構造となり、悪口や批判や損得面ばかりが活発に働く状態にある。それはいつしか人格の下落を招き、本来の人間としての誇りや自信が持てなくなり、僅かなことで自分自身が惨めになってしまう。そこからは人の幸福を妬み、不幸さえも願うまで落ちていくことになるのである。
平和の条件としては馬鹿になることである。これが修行者の心得であり、自己超越の基本精神である。つまり、相手を気にする前に、自分を単純にすることに努力すればよい。相手が気にかからなくなれば、みっともない荒々しく荒んだ心は消失している。そうすれば総てに隔てが無くなり、その時その物と親しくなり同化している様子が解る。心がほどけると自然に尊敬の念が現れ、豊な心の交流に感動する。それが一番気持良いし、最も素晴らしい関係ではなかろうか。和の語源は、声を揃え音律を整える意にて、まさしく隔てなく同化することである。和敬するところ、真あり美あり、善あり平安あり、又愛あり助け合いあり。これを仏の世界とは言うなり。
聖徳太子曰く「和を以て尊としとなす」と。この言誠なるかな。真実は永遠なるらん。君に問う、これ一体誰の事ぞと。


香満一輪月  香り満つ一輪の月

こうした古文調の格調高い詩的表現は、仏教文化の移入によって絶大な影響を受けて始まったものだ。榮西禅師を初めとして、禅の巨匠方が日本文化に与えた力は大変なものだ。極めて速い速度で、純然たる日本文化として形成した代表的なものが、あの五山文化である。京の都は派手な戦乱でありながら、そんな精神文化を中心にして、わびさびの深い文化が花咲いたのである。東洋の高い精神文化は、だから世界から熱い眼差しが注がれてはいるものの、彼等がその深さと高さを理解するには百年はかゝるであろう。それは心の自然さと論理を越えた感性的理解の融合性が彼等には無いために、東洋の理解する仕方すら神秘主義としか把握できないであろう。彼等には論理が唯一の共通項で、それは知的概念の世界の限りの理解である。感性による深い精神的理解力自体が彼等に培われていない。これから色々なすれ違いが生じるであろうけれども、本当に理解することが本質的に難しいということを日本人がよく認識しておくべきなのである。
さて、香り満つ一輪の月、と言う語句は説くに及ばぬであろう。つまり、西洋人と違い我々日本人は論理ではなく感性でその状況とその時の係わりのすっきりと爽やかな心を感ずることが出来るからである。こうした言葉が何故禅語句という特別なジャンルとして扱われるかというと、どろどろとした精神の葛藤を表現している万葉歌のようなものと決定的に異なるからだ。それは、個人を越えて理屈や葛藤が微塵も無い大自然の中に昇華させた、大きくてさらりとした、透明感あふれる境地にある。その如何にも程よい充足感は総てと隔てが無いところから湧く、親近感一体感である。慈しみ愛せざを得ないではないか。本当に心地好いから、何でも生きているし輝いているし、新鮮で芳しい限りなのだ。
今日も出てきたか、何時見てもお月さんはいいものだなあ。とも何とも思わず、ただ月と一体になった心境は、そのままその人の全体であり、美しい真実の姿である。自己が月となって現成しているに過ぎない。その外に自己とすべきものは何も無いのだ。この一刹那の様子を自覚することが肝心なのである。道元禅師曰く「他己の身心(月)をして脱落せしむるなり(自己のない消息を自覚させる)」とはここだ。そのための禅修行である。月は誰ものでもない。が、無所有の者の所有なので、その人から奪うことは決して出来ぬ。しかし、心という月は自分が全責任を以て管理し磨かなければ、月と現成することも無く、又決して光ることもない不可思議・不可得なるものである。月になれ。、月になれ。


不動  ふどう

動かざること山の如しと俗語にもあるが、この不は超越の意味にて、動く、動かないの意味ではない。不の動である。動ながら不動である。取られる心などない超越の境界のことである。されば闊達自在の活動体には、何の分別臭いくだらない妄想などないから、動くとか動かないとかの理屈を離れている。道元禅師曰く「山河大地人畜家屋畢竟如何。看来たり看去らば、自然に動静の二相了然として生ぜず」と。本当に一心不乱の時は自分など無い。捕われの元である自我が無ければ、見たり聞いたりに振り回されること有るまじきなり。只見ればよい。只聞けばよい。只活動すればよい。只座ればよい。常に単調に単調にと努力しておれば、自然に動くとか動かないとかの比較観がとれ、自然に自他の観念が取れて一如に成ってくることを教えているのである。
さればこの不動を無我と理解することが出来る者は、動きながら動いていない不変の一点を容易に見て取ることが出来るであろう。そこまで来ると単調さが救いとなり、何にでもさらさらとやれる道が分かる。歩く時、歩くの単になり、歩くばかりとなる。歩いて歩くことを忘れることが肝心なのだ。その時、相手が無い。相手に取りつかない。認め執着しない、安住の世界が不動心である。その事に徹して我を忘れ切ってみよ。大きな光明を得ることを約束する。不動の境界を又光明とは言うなり。八風吹けども動ぜず天辺の月。これなどは玲瓏として実にいい句だ。不動心とは無心なり。空なり。


決断心  けつだんしん

知性というものは決して正義感もなければ愛情も無く、ただの分別機、つまりコンピューターに過ぎない。だから悪人の知性は悪のために使われ、人を殺す巧みな手段などを考え出していく。普段における迷いというものは、殆どが知性と感性との合一性が取れていない時に起こる、精神性渋滞のもつれた様子のことである。例えば、任務や過程としてはそれをしなければならない。その状況は知性によって健全に判断されている。ところが、我々の感性・感情という代物は絶対に知性の統率下にはいないから厄介なことになるのである。したくない、いやだ、あほらしい、得にもならないのに、辛い、あいつのためにして何になる、等々の感情が精神に去来し始めると、判断の如く実行するには、どうしてもその感情を越えるもっと多くの、もっと強い精神エネルギーが必要となってくる。怖いと思い出したら知性ではどうにもならなくなる。原始的な生命現象が働くからである。しなければならないが、したくないという状況こそ、最も非生産的消耗であり苦しい状況なのだ。良いと分かっていても出来ないのも、悪いと知っていても止められないのも、知性よりも感情の方が強いからである。だから平素よりくだらぬ思念は避けることが肝要なのだ。つまらぬ思念をすればするほど余分なイメージによって精神構造自体が不純物に犯される。中にはマイナスイメージによって、自家中毒にかかる場合だって少なくない。ノイローゼか自殺もそこから起こる。
とにかくしっかりと目的意識を確立して生きることである。つまり、平素より精神世界をできるだけ整理し、すっきりさせておらなければならない。そして、いつも一つ事に、今しているそのことに集中して、雑念を起こす隙間を与えぬことである。奇麗に言えば成り切る事である。知・情・意が健全に統一された時こそ、もっとも充足感があり、していることが楽しい。これほど効率的なことはないではないか。更にその事を努力して我を忘れ切るまで徹してやれば、忽念としてその物と同化する時節がある。決断の付いた証が得られるのだ。
決断心とは、意識を一つに纏め、他をいさぎよく退ける精神の統一的確立を言うのである。決断の時時であれば、世間のつまらぬ風噂に迷うことなく、毅然として人間の誇りのままに爽やかに生活できる。自殺者には、それこそ死ぬより外はないと誰にも同情理解の出来る者も居るが、あんなことぐらいで何故死ぬのか分からないような死に方をする者が多い。それは自家中毒にかかって精神が枯死した絶望観・悲壮観による自己頽廃現象である。それは意識がイメージを限りなく繰り出し続け、不安や心配や悲しみ恐れなどを増幅するから、自分でつむぎ出した糸に絡まって窒息した状態と同一である。過去型精神は捉われから脱出することが難しい。思い出してはイメージの中で苦しみ続けると、人生が嫌になっても不思議はない。この様な時、明眼の師に一喝されるとよい。さすれば過去型から未来型へと転化出来るであろう。未来型は捉われる現実が無いだけ、明るい夢を見ることが可能である。常に単純化していることが、決断したと同様の安定力であることを知らねばならない。あれこれ思わず、手元足下をしっかり見つめていると言うことなのである。どこの禅門の入口にも「脚下を照顧せよ」と書いてある。我々はこの端的なる指示を心底信じて実行すべきではなかろうか。


虚心  きょしん

よく虚心坦懐(たんかい)と熟語して使う。心にわだかまりなくさっぱりとした透明感あふるゝ精神をいう。どうしてこのような言葉が心地好く響くのであろうか。それはなかなか自分の気持ちがさっぱりとせず、どこかに不安と共に貧しい心があって、人の言葉も素直に受け取れず、疑いの心が働き、裏があるはずだとどろどろとした思念に迷わされている自分の、そうした暗闇から開放され、拘りなく淡々とありたいからだ。どうしてそのような精神の使い方をしてしまうのだろう。
それは存在の根本が生きることにあって、先ず自分が存在しなければならない生存への執着が働いているからだ。だから自己が立って、それが他への対立的視点となり、その限定方向に於いて精神を働かせていることが分かるであろう。つまり、精神が発動した時には、既に捕われと対立の地場に立たされていると言うことなのである。虚心とはそれ以前の世界である。父母未生以前である。存在とか、非存在とか、そうした言葉の届かない世界であり、対立の心を生み出す自分と言う世界観・価値観を立てない無色の自由な精神のことである。さすれば当然ながらすっきりと素直になる。そうした精神の働きは決まって人としての道を踏まえ、誰にも礼儀正しく誠実である。虚心に至るための要点は、とにかく物や人や自然に素直になり心を通わせ、くだらない余分な精神行為を止め、自我を捨てることである。捨てただけ、それだけ大きくなっていることを知らなければならない。そこで開かれて行く世界が無我・無心・三昧である。虚心の人は、だから大自然との語らいが自由である。語り尽くして出ず東山の月。心に懸かるものはなにもない。山川草木悉皆成仏の端的である。虚心の人は、幽玄且つ深い世界にあって、豊かな心で生活しているのだから堪らない。ただ何となく、雲のごとく水のごとき淡生涯。


柳は緑ならず 花は紅ならず

これこそ典型的な禅特有の語句である。どうみても論理的ではなく、概念構成からも知性的ではない。或は又、山是れ山に非らず、是れを山と言う。とか、狗子仏性有りや又無しや、の質問に。無。同じ問に、有。と答えている。普通は、柳は緑、花は紅。と説く。誤ってはならないのは、禅は決して言葉の世界で哲学しているものではない。だから言葉は決して論理的説明的でなく、概念の矛盾というような論理性批判なども無い。言葉では矛盾であっても、正論とか矛盾とかの概念を越えた、超越的精神の表現としての言葉に過ぎない。だから知性の中の、概念や観念現象の世界の人には絶対に分からぬ。自己を越えることが出来ない人は、言葉も又越えられ得ないがために、言葉に迷わされ続けなければならぬ事になる。それで禅の語句は一般とは別世界として扱わなければならない理由が有るのだ。
さて、是れは又どうしたことか、と皆は不思議に思うであろう。そこが禅一流の教育法なのである。片や、柳は緑、花は紅と説きながら、一方に於いて、柳は緑に非らず、花は紅に非らずと説く。当然この矛盾を説明してもらおうじゃないかということになる筈である。
その真意は別に有るのである。本当に柳は緑であり、花は紅であると冷暖自知して、絶対確信が着いていれば、どのように言われようが迷うことはない。決定的決定心(けつじょうしん)は少しでも観念や認識的理解と言うエゴの元が残っていたら、決して徹し切る事は出来ぬ。そこで、こやつの修行はどこまで至っているかな(自己を越えているか)と、一つには点検に使っている言葉なのである。であるから、こうした言葉に、ついうっかり疑問心やへ理屈を並べ立ててしまったら、瞬間に判決が下されてしまう。全然なっておらぬ、と。
更に向上底から言うならば、「柳は緑、花は紅」の絶対地を確立したということは、存在の矛盾無き平安の世界を確立した重大な自覚である。自己を越えた存在「柳は緑、花は紅」は因果そのものである。ところが、本当に柳になり切って全自己を越えた絶対世界は、柳を貫き通し総ての存在を越えている。大自然の総てを因縁性空と体達した時である。因果の無自性を知り、それをそれと確信した世界をも超越したのである。又緑がただに緑であることの絶対確立を越えて、緑を緑と現成せしめる絶対力。その力が宇宙を現成せしめているのだ。三界唯一心造とはこのことである。それは最早柳はただに柳ではなく、緑も緑にとどまってはいない。そこに現れてくるものは、「柳は緑にあらず、花は紅にあららず」と語って、本当の世界を伝えているのである。命懸けの修行者が体達した究極の世界から、真実の救いを示した禅語句は、理解するには命懸けの眼をもってしなければ見えるものではない。
この様に禅語を説いてくれるものがいたら、少しは一般にも分かるのだが、なかなかそんな人はいるものではないことを蛇足しておく。


古仏心  こぶっしん

古仏の心と言う意味である。我々禅者は解脱に達し得た祖師方を尊称して総じて古仏という。つまり、過去現在未来関係なく、実在して極点を極め、また極点を目指して真剣に努力した方の、その生き様を旨として尊ぶのである。多くの場合、時代の波に染り怠惰に流れ、自らの志を見失ってしまいがちなものである。世代の勢いというものは国を丸ごと或る方向へ流してしまう危険がある。我が国の嘗ての軍国主義を見ても分かるはずだ。その中に有って、それは間違っていると果敢にも天下に向って唱えたものも少なくない。が、正義とは勢いの側によって作られていく人間凡夫の誤った選択がある。身を捨てて勇敢にも世代の流れに逆らった、そうした人達は大概牢獄に繋がれ、ひどい仕打を受けたはずだ。我々修行者として絶対忘れてはならぬことは、何のために修行するか、という第一の用心である目的意識をしっかり、はっきりさせることである。次に、どうしたらその境地に、誰でもが確実に達することが出来るか、という具体的で明解な方法論の確立である。その総てを兼ね具えて教えているのが古仏である。古仏心とは、決して時代や世代の勢いに係わることなく、不偏の真理に向って身を捨てて努力した、その暁の輝かしい精神とその持ち主のことを言う。
昼間とは、太陽によって明るく照され、誰もが明々白々の生活を営むことが出来る。謂わば明るさの恩恵の時をいう。暗闇とは、照すもの無きが故に、不明晰で総ての存在すら知る由もない。故に、不明と不便と不安のために何をすることも出来ない世界を暗闇という。
古仏の心は昼たらしめる太陽であり、光そのものであり、救いを意味している。光を失えば即闇となることが分かれば、如何に真の指導者が大切であるか。だから時代や民族など関係なく、良き指導者を敬愛尊崇しその心を目標にして指示のごとく努力することが大切なのだ。そうした人は又真の指導者足り得る者である。今は太陽を厚い雲が妨げ、次第にその厚さを増し、じりじりと暗黒に近づいている大変危険な末期的世代である。この様に言っても、既にこの世代の者は古仏心を尊ぶ力を失っているがために、やがて訪れる闇の苦しみを避けることは出来ないであろう。とにかく、心の太陽よりも、文明とやらの便利な道具ごときを有難がっているいる限り、灯りは曇るばかりなのである。このことは如何にも確かなのである。悲しいことに。


水流帰元海  水流れて もと海に帰す

自然は総て運行し還流しておる。その運行も還流も、大自然の総てとの係わりによって是の如くある。我々の日常は殆ど近視眼的に捉え、局所的対応で事をすませておる。その本元の事や全体とのかねあいや影響の事など余り思考の範囲に入れてはいない。超個人的視点に立ってみると、遅いか速いかの違いはあるが、全体の大きな流れは一つものである事が分かる。損得やメンツなどと目くじらを立てて争ってみても、やがては皆、元の海に帰って一つものになってしまうのに。言うではないか。人生たかだか七八十年と。生まれれば必ず死ぬことになっており、形あるものは必ず滅す。これは何人も変えることは出来ぬ故に戒と言う。然るに、流れながら、変化しながら不動のものがある。それが心の月であり、今の関係性の働きであり、拘らぬ自然体である。つまり、無我である。
やがて又天に上って雲となり、雨又雪となって地中の命を育む。自己の小さな限界に捕われる者こそ哀れと言うものである。小さな自己から大自己への精神の大昇華はそのまま大自在となる。拘らぬ心は自由に決まっている。大海となれなれ。


寂然として不動 春の花に在るがごとし

それは実に自然で、静かで、まるで片時も動いていないようだ。あたかも春の花に春あるが如く、春というものは何処からともなく訪れて、花を咲かせ、小鳥をさえずらせる。静かな花に華麗に舞う蝶や蜂達は、ただ何となく何となく花に戯れている自然の営む様子は静かこのうえない。微かに揺らぐがすぐに止む。それが返って静けさを増している。寂然として不動とは、こんな様子を言うのである。
付け加えるならば、夜半清風に和して踊る水中の月。とでもしておこう。


名月盧花 君自ら看よ

名月とは十五夜なり。禅語は名月より明月の文字を好んで使う。どこがちがうか。明月とは夜に輝く月のことで、欠けていようが満丸であろうがそのことにさしたる比重はなく、真っ暗闇の中の月はどれであっても明るく美しいものだから明月と表す。十五夜の名月は一番明るい月である。盧花(ろか)とは白い花の代表格として禅語に出ず。最も明るい月夜に、あの優雅な白い盧花を見て楽しむことは大変難しい。何故なら、月下の明りは黄色からネズミ色まで皆白く見えて区別が付かぬからだ。だから青白い月下に盧花をするどく見て取れるほどに夜に慣れると、月下の盧花を楽しむほど痛快なことはない。何故なら、誰もがその深い床しき花を看ることが出来ないからだ。どうだ、君、一つ努力してこの名月の盧花を楽しめるように頑張ったらどうかな。
畢竟、究極の人生を送りたいならば、大いに骨折って悟れよ。の意なり。我も又告ぐ。名月盧花君自ら看よ。看んと欲せば急に走って悪辣の禅門を叩け。おそらくは開けん。そこには君のために水中の天あるあり。


竹影 階を払って 塵動ぜず

この語に続いて「月潭底(たんてい)をうがって水に跡(あと)なし」の句が来る有名な歌である。禅僧なら知らぬ人は居ない。ただし、駆出しやもぐりはその限りに非らず。
こうした味わい深い禅の語句は、修行の結果すっきりとした心境を述べたものが多いが、これなど最も広く愛されている横綱である。
竹影とは字の通り竹の影である。階とは階段で、ぽつぽつと上がり下りする段々であろう。塵とは所謂の地表を汚す奴じゃ。動ぜずとは動かない、影響されないとの意。とても分かりやすく自然の様を歌ったものである。まとめて言うとこうなる。
昔はともかくも、体達した今は何事にも理屈なく本当に自然で、一々の風流の趣が何とも言えぬ。日中にあってふと看れば、竹の影がゆったりと揺れて石段を掃くが如く撫でるが如く、只ゆらりゆらり。決してほこりも立てず塵も動いてはいない。何と静かで平和なことか。何とも語りつくせない風情がある光景ではないか。是れは又我々の心の様子でもあるのだよ。喜ぶ縁にしたがっては喜び、悲しい縁に会っては悲しむが、心の本質というものはちっともそれらに左右されるものではないのだ。この心を体得しさえすれば邪悪なる働きはしなくなるものなのだよ、と。


月 潭底を穿って 水に跡無し

前の句に連なった名高い歌の対語である。前の句は昼の光景を借りて心境を述べ、ここでは夜の因縁を借りて高い心境を絶妙に説くのである。禅語にて使う月とか水とか鏡とかは、自我無く拘りなくすっきりとした悟りの心境を現すことが多い。ちょっと説いてみようか。話は簡単である。潭底(たんてい)は滝つぼの底のこと。心地好い月の夜、風に誘われて散歩していたら、何時もの淵まで来てしまった。ふと見ると、燦然と輝く月は上ばかりではなく、淵の底を深く貫いて地の果てであろうかと思うほどの処に在って輝いているではないか。月は水もろともに底を穿っていながら少しも水を傷つけてはいない。何という絶妙の美しさであろうか。と言いつつ、拘りなく何にでもさらりと対応して少しも染らぬ自分の心境を語って、皆に希望熱を促しているのである。月になれ、水になれよとの底意なり。これを慈悲と言う。


明月踊水中  明月 水中に踊る

時は一瞬一瞬過ぎ去って行く。過ぎた一瞬を過去と言う。未だ訪れていない一瞬を未来と言う。現実のこの一瞬が今の我々の全人生である。今は過去を形成しながら、又未来をも形成している絶大の今である。従って、今が未来を構築する縁であり選択肢であるという基本的認識が、その人の人生の質を決定していく。今や、この精神的基盤の確立が出来ているか否かによって、青く美しいこの地球が守れるか滅ぶかという岐路に立たされている。今の在り方が未来を決定していくからである。
濁れた精神も、本来は明月のごとく美しく輝いているのだが。今は明月に学ぼう。汚れなく、公平に照し続けている明るい月。一点の濁れもない綺麗な湖。まさに今日の月をもてなすに相応しいではないか。今宵は特別だ。お負けを進呈しよう、先ずは爽やかな心地好い風を。さて、次の贈り物を気に入ってくれるかね。世界に一つしかない特別あつらえのステージで踊る月の水中ダンスは。君は妄想している観客であってはならない。総ての認識や分別をかなぐり捨てて、そこらの枯れ木のように、また苔むした岩のごとく自然の本来になって総ての分別を捨てることだ。すると、君が見るままその物になって、最早傍観者ではない。どうだね、月が生きて踊っていることが分かるだろう。何て素晴らしい芸術なのだ。これ以上の美が何処にあるというのだ。
だけれども、残念ながら心の月や水が濁っていては、決してこの大殿堂へ入ることが出来ない特別入場券がいるのだ。だから価値が高いのだ。幾らお金を出したとしても、そんなものではどうにもならない別世界だもの。
今、この一瞬一瞬の本当の躍動が感得できれば、この地球も又守られるであろうに。


清風語禅心  清風 禅心を語る

清風は町中や工事現場から吹いてくるものではない。綺麗な湖面を渡って身を清め、山々と木々と青々とした草むらから酸素というエネルギーに着替え、最後に竹薮に入って、華麗に身つくろいをし、葉のささやきという素朴な鈴の音を添えて初めてその顔を現すという。言ってみれば、清風は我々に最高の礼儀と同時に、自然と言う調理場から命の最高の贈り物を携えて来てくれる最高の客人なのである。小憎いことに、我々に無償で提供し、何の求めるものなくして又いずこへか去って行く、幻の来客と言ってよい。
我々は快く彼等と遭遇しなければならない。ざっと庭を掃き、名利や貪欲の心を捨てて、出来ることなら日向と木陰の交差する辺りに立つと最高であろう。
足下の木陰が微かに揺らいだら、彼等の訪れと知るべきである。虚心に大きく、足の裏にまで達するほど、彼等に向って大気を吸い込むとよい。大自然は虚心が大好きである。その時、胸深き処に霊気の宿る気配がするはずである。霊気は無心が大好きである。無心も又霊気が大好きである。清風のおいしさは、無心の味であり霊気の祈りであり、限りなき充足の味である。とにかく全身で味わうべきスケールなのだ。何の理屈も貪りもなく、全身で一瞬一瞬を満喫することを禅という。その心こそが禅心なのである。包装紙に包むと無心という言葉に化ける融通無碍の心を言う。清風は禅心を語り、禅心又清風を語る。無語にして語り、又無心に応ず。語りつくして去り、又去って後を残さず。自然の妙、ここに極まれり。


少林の雪に滴る唐紅に染めよこころの色浅くとも

釈尊の国インドより支那に真実の仏法を伝来せしめたのが、あの有名な達磨大師その人である。今をさかのぼる一五〇〇年前の出来事なりき。すでに中国ではあちこちに寺も建てられ、仏教は学問として隆盛を極めていた。がそれは仏教思想、仏教文化というものである。薬の効能書は充分研究したが、実物の薬が届いていなかった状態であった。達磨大師が中国に来られると、真実の佛法を体得された方が来られたという噂がたちまちに広がった。人を集めようと思えば、すぐにでも大教団ができあがったことだろう。しかし、大師密かに思えらく、この法を得ること一大事因縁なりと。真っ正面から受け取ることのできる人の稀であることをよくご存じだった。大師は嵩山少林寺の一室で、只、面壁坐禅をされるばかりだった。大師に教えを乞おうとする者たちは、取り付く島もなかった。
幾星霜の間も無駄ではなく、遂に大法の人が現れた。なんと面壁九年の後である。正に冬が訪れようとするの日なり。必死の懇願にもかかわらず、大師は常の如く、振り向くことなく、只、坐禅するばかりなりき。否、この露堂々をよく看よ、との底意はこの時知る由もなかったのだ。彼は外で立ち続けた。陽落ち、冷気下だり、遂に雪降り始め、最後の試練石の時来る。降り続く雪中、大法を求むるの人微動だも無し。夜中の雪、彼の腰に至る。大師なお振り返らず。雪の試練石、彼をして遂に自らの臂(ひじ)を切断せしめ、大師に呈す。師、深く是れを首肯す。ここに至って入門を許す。師弟涙の遭遇なりしなり。これ第二祖、神光慧可大師の誕生なりき。
彼の臂から、深き新雪にほとばしる鮮血を唐紅というなり。これを真の「菩提心」と呼ぶ。達磨大師の心底は、夙にこれにあり。「本当」に渇くこと、「本当」に苦しむこと、「本当」に求め切ること。「本当」の消息とは本来なり。本来に自己なし。それでこそ初めて、本当に渇きが癒え、苦しみが消滅し、求めるものがなくなり、真実の解脱に体達するのである。
菩提心を起こせよ。「本当」のものを求めよ。本当に自分自身に決着をつけよと。これは、海を越えて菩提心が菩提心に伝わった瞬間を詠んだ道歌であり、佛祖の悲願を詠んだ尊い歌である。染めよ心の色浅くとも。


心ともしらぬこころをいつのまに我が心とや思ひそめけむ

こうした歌、和歌調にして精神の深遠な世界を読んだものを道歌という。完全に禅の心を日本文化にしたものである。書家が文字の表現法に於て芸術性を優先し、その歌の意味や心を伝達するということとは異なって扱い、また和歌や俳句などが言葉の表現に限りなく芸術性を求める世界であるのに対し、道歌は芸術や思想や文化を生み出す元の精神そのものを語るところにある。従って苦悶する心もあれば、自己も言葉も越えた精神を歌ったものもある。当然ながら後者は知性の世界を脱し、一切の空なる絶大の世界を知らしめんとして歌たもの故に、他の禅語句同様概念的洞察では理解できぬし、読めても真意を汲むことは難しい。これなどは余程分かりやすいものと言えよう。
突然正面に心をテーマとして出してきた。聊か修行して可成りの力を持った御仁が、知ったかぶりをして理屈ばかりを言う連中に波風を起こした。
本当の心も嘘の心もさっぱり分かっとらんくせに、自分の思いや考え方や価値観を論理化して、いつの間にかそれに捉われ、それを自分だなどと思い込んでいる。滑稽なことだと、うそぶく気色の悪いうすら笑いが聞こえてくる。そればかりか、悔しかったらやってみろ! と、生ぬるさを叱責して努力心を引き出そうとしての慈悲なのである。道歌の光っているところは、心底が愛であり、祈りであり、救いであるからだ。

一心は 只梅花の上に在り

これは一般の禅語句を読みくだしたものと同質の俳句であろう。素直に只読むと伝わってくるものが在るはずだ。これが禅の特徴である。素直と言うことは、他との対立的境がなく、どんなことにでも心静かに淡々と応じる精神のことである。自我がそれだけ薄いことを意味し、心がそれだけ豊かであることも意味している。素直であるだけ無我に近いことを知るがよい。あなたはもう死にますよ。そうですか、はい、分かりました。と言って素直に縁のままに任せて心を巡らさなければ絶対平安である。観念の外の人とは言うなり。無我の人なりき。
春の魁はなんと言っても梅であろうか。ああ、梅が咲いておるが、もう春か。と梅の花に自己をとられて見入っている様子の、何と汚れなく爽やかなこと。うっかり見とれすぎて冷え切ったのではあるまいか。それでも馥よかな心の温もりにて、寒さも気にはなりますまいな。


物もたぬ たもとは軽し 夕涼み

或る高僧、道元禅師を訪らって、呈して曰く。
  仏も我もなかりけり ただ南無阿弥陀仏の声ばかりして
とやった。純一になり切って出た。つもりだったが。道元禅師曰く。
  仏も我もなかりけり ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
そのもの自体には隔ても理屈もない。自分というものが残っていたことに気が付いたげな。声ばかりして、といった大きな隔ては誰にもすぐ見分けられるから参考にするが良い。無いほうが楽であり自由である。世間に於いても同様で、立場も物も、在ればその存在の全体を管理し責任を取らねばならぬ。何でも持つと、それだけ重たくなる。物に限ったことではない。名誉でも地位でも、目に見えない心の世界ならなおさらである。みな虚栄心からだが、結局は心が貧しいから堂々としておれないし淡々といかない。心が定まらぬから騒がしい。平素より拘らない爽やかで大らかな生き方を心掛ければ、人生が生き生きしてくるものだ。そのためには相手を見ずに、どんな事でも捕らわれの念を用いずに、只淡々とやるよう努力することしかない。
人間として自分の器量に余裕をもたせて生きるのが一番平安である。平平凡凡、夢も少々ぐらいが一番良い。何故か。そもそも生きるとは人及び物との能動的関係性に過ぎない。今、今、その時の時間と空間との係わりの事である。だから関係するものが多くなれば、つまり持てば持つほど時間も空間も関係のために心を弄してしまい、何のために生きているのかとなると、まるで意味の無い事柄に命をすり減らして日々を過ごしているのだ。いたずらなる時を送るばかりで、気が付けば、ありゃ、もう死ぬのかや! となるのだ。ものもたぬとは、心に持ち込まない、捕らわれない様子である。夕涼みは夕涼みで、その事には理屈はない。拘りが無いからその場その場、成り切り成り切り満喫しているところに着眼することである。
この句は、何もかも脱落させて、言うことも、思うことも無くならしめ、真の境界に体達させんがための向上の一句である。総てを落とさすための慈悲の道具である。空海曰く「無一物中無尽蔵。花あり。月あり。楼臺あり。」古仏曰く「自己なければ、自己ならざる無し」と。六祖曰く「身は本菩提に非らず。心は明鏡台に非らず。本来無一物。何れの処にか塵埃をつけん。」
いいものは何時もいい。究極にはそれ以上のものはないぞ。身もなく、心も無く、実にさっぱりとしていて跡が無い。好事も無きに如かず。不道、々々。(言わず、言わず)


一是一非 春夢の中

春の大地は草から木から花から無限の命が育つ。それに群がる蝶から蜂から小鳥から、まさにこれを春爛漫と言うのであろう。それはそのまま大自然の素晴らしい営みであって、何の不思議もなければ不自然さも無いし、また何の力に依るものでも無い。ただ、自然の持つ、因縁無量の働きである。生まれたら死ぬ。形在るものは必ず滅す。これ程確かなものはない。大宇宙の命の躍動がそれである。生のまま、死のまま、それが自然の命の姿である。生死に理屈を付け、両極的価値付けして苦しむのは人間だけである。
蝶や蜂は、この花がいいと選んでは止るが、是れも駄目、といって次に移っていく。限りなくそうして、やかで死んでいく。一是とは是れが良い、という意志決定であり、一非とはこれは駄目、という判断である。
自己中心に働く知性とは、丁度春のさなかに一時の夢を貪り続けている蝶や蜂の如く、対立して定まらず、心や観念を忙しく回転させて、やれ本当だ、やれ嘘だ、損だ得だと、悪戯に空しく時を過ごすばかりではないか。何と哀れな夢に戯れているのであろうか。やがて死ぬばかりなのに。本当、本当。


眼前是什麼  眼前是れなんぞ

知性とか観念は必ずその対象がある。というより、知性のカプセルの中に居る限り、対象を認識することから総てが起こり連続していく。観念現象の構造的宿命というか原則的現象がこれである。これが過去世を引き摺る既成概念の元でもあり、一口に捉われと言う精神の拘束力となるものだ。こうゆう知性の限界を背負って生きているのである。先立って働き出すのが自意識であり、自意識は自分を正当視しようとする指向性を持っている。これがエゴの本である。その結果が総ての欲望を権利として認めようとし、じりじりと正当視してきた。今日の地球的危機はそれから起こったものである。
こうした精神を根本的に解決を付けようとする修行者にとっては、先ず事実と観念現象との境を付けなければならない。観念は一瞬の問題なのである。一瞬に出る観念は、次の一瞬には次の観念を引き出してくる。こうして時は観念の結合・連続を来して思念という論理を構築していく。こうして事実とは関係なく、言葉と概念の世界、謂わば空想的仮想存在の世界に浸り切った状態の人を、仏は衆生と言って哀れんでいるのだ。顛倒夢想だというのは、概念という過去のデーターによって、今の事実を看ているので、絶対に今の今、本当の今の実体を(心の実体・物の実体)看ることは出来ぬぞということなのである。それは一瞬の事実と人間との関係性に於て、理屈が間に立っているので事実と人間とが離れてしまうからである。
さあ、理屈なく、目に在るものは何だ! 目が、物を識別するか否か。目が色の判断をするか否か。目が見ると言うか否か。目は言葉や概念が無ければ見れぬか否か。本当に見る時、言葉が入る隙間が有るか無いか。耳も又然り。眼耳鼻舌身意皆然り。自分の存在の根本の問題である。よくよく厳しく参究功夫してみるがよい。物を見て、言葉で見ているうちは何も本当のものを看ていないのである。先ず、この事が分からねば自分の解決には無縁となるぞ。道元禅師の御歌に、
  見るままに また心無き身にしあれば 見ると言うだけ時の盗人
  聞くままに また心無き身にしあれば 己なりけり軒の玉水
汝の眼前、畢竟これ何ぞ! 汝の耳底に在るもの、これ何ぞ!


さらさらととどこほらぬが仏なりよきも悪しきもこるは鬼なり

時はいつも時である。今はいつも今である。今でない時はない。心の働く時は何時だ。迷う時は何時だ。心の働きは一つ事をずっと続けているかどうか。昨日の嫌な働きが今在るかどうか。今在るのは記憶の作り事で、それに誘発され合成されたビデオ的イメージではないのか。そうこうして過ぎ去ったものを記憶から取り出して感情を騒がせ、ヘ理屈を並べ立てている今の、本当の今はどうなっているのだ。
良いことも嫌なことも、時の一つの様子であり関係性でしかない。過ぎた物事は総て夢幻で、今の生きた事実とは関係ないのである。心に拘りとして持ってしまうと、肝心な今の生きた命の躍動を殺してしまい、本当の人生を味わずして生涯を終えることになってしまうぞ憂いなり。本当の今であれば、拘るものなど何も無い。時と一体となって、只さらさらと、さらさらと。ここに絶妙なる味わいがあるのだが。嗚唖。
さらさらととどこほらぬが仏なり よきも悪しきもこるは鬼なり。この歌、世界を度し尽くしておるではないか。


明月や ふる茶の中に千世界

明らかに禅文化の影響下で歌われたものだ。迷いや苦しみは捉われから起こる。知性に捉われ、相手に捉われ、概念に捉われ、言葉に捉われ、見たものに捉われ、聞いたものに捉われ、とにかく己に捉われているから起こり、その本は自己が有るからである。別に知性や概念が悪いわけではない。そうした捉われは、宇宙と言えばとにかく無限大と言う比較的絶大イメージで認識しようとする。これみな空想であり観念現象である。謂うなればみな小さい作り事でしかない。そうした拘りを捨て、概念を超越したならば言葉も意識も関係ない。とにかく対立するものがないのだから総てが絶対存在である。これを宇宙という。大小・善悪・自他・損得等の比較がないのだから、それぞれが絶大な世界である。だから自己無ければ悠然たるものではないか。天上天下唯我独尊とあるももっともである。
いい月だ。どれ、一服頂くとするか。おもむろに立てる茶の泡一つ一つに明月がある。それも数え切れないほどの月が。明月を飲む一服の味如何。明月又茶を飲み人を飲む。これ生死を越ゆるの味なり。さもありなん。自己なければ、千世界(全宇宙)も一握りじゃもの。


きつつきや 枯れ枝さがす花の中

花に誘われ花に酔う。これ春の花の酒模様か。忙しい世の中だけに、げに自然の大芸術に見とれる一時が欲しいものである。されど酔うて自失するは本来に非らず。人生の価値いずこにあると、醒めて自ら自虐にさいなまされるが落なり。人生はきっちりと目的をもって生きなければ、その場限りの刹那主義と惰して空しく死するのみ。
花を愛でるもまた人生浄化のこつか。そんな花には見向きもせず、せっせと枯れ枝を探すはこれ何故ならん。狂か、真か。目的のため、理想のため、脇目も振らず時を惜しんで努力する姿に学べよ。是の如くとるもまた良し。
過不足の無いこの様に美しき本来の世界なるに、何でまたわざわざ世迷い事をして詰らぬ人生を送るのだと、向上底にとるもまた良し。ただ、自ら時を空しく渉ることなくんば幸なり。総て励みにとり、戒めに供すれば、捨てるものなど何も無いぞ、となり。


雲のごとく水のごとき淡生涯

人生は爽やかでありたいものだ。自ら恥じること、偽るものがなければ、人に何を言われたとしても気にすることはない。しかし、人の世とは常に騒がしく、何でもないことなのにあれもこれもが人の口の端にかゝると面倒になる。つい気が重くなり疎縁を好み、心で他人を否定し、世の中が悪いなどと自分の精神をなおざりにしておいて他を批判ばかりする生き方になってしまいがちである。そこでそのような環境にあって淡々と生きる道があるのだ。それは自分の今、この瞬間を大切にすることである。学ぶことを好み、高きを求め、神仏を尊崇して頼まず。日々を大切に生きるよう心に程よい緊張感を持つことである。さすれば、世のつまらぬたわ言に心を取られなくなる。
所詮人生とは関係性の縁のものでしかない。もっと言えば見聞覚知であり、眼耳鼻舌身意の色声香味触法に過ぎない。この外に何か在りそうにきょときょとするから妄想の虜になってしまうのだ。縁と運命と努力を信じ、総てを慈しみの時として過ごしておれば道は自然に成るものだ。これが本当の信仰である。雲の縁にしたがい自由にあるが如く、水の方円に従って自らの性を失うこと無く、自由に対応するが如き様子は、学ぶべきものが沢山ある。雲のごとく水のごとく自由で、拘り無く淡々と生涯をしてみたいものではないか。


杜鵑啼いて百花枝に在り

鴬にならんでよく登場するのがこのほととぎすである。余程人間と相性がいいのであろう、禅語句にもしばしば出ておる鳥である。この歌は極めて日本古来からの俳句に近い。
ほととぎすは鴬と違って余り人家に近づかない鳥である。むしろ市塵を離れ、自然の中で聞くことが殆どだ。その昔から絹を裂くような切ない鳴き声と言われている。勿論絹を、キュッキュッと引き裂いたことが無ければ、その例えは意味を成さぬが、その切ない鳴き方故に愛されているとも言える。滅多に人里近くへは来ないだけに、近くで鳴くほととぎすはむしろけたたましいとさえ感ずる。驚いたとしても決して不自然とは思わぬし、驚いて当然であろう。
あっ、ほととぎすだ! と庭先を見ると何れの木の枝にも花が咲いているではないか。何だ、何時の間にやら春が来ていたのか! 自然への感動と驚きが漲っている歌である。
それは禅語のような深く高い超越的世界を歌ったものではない。従って道歌とは言い難い自然の情景表現の俳句と言ってよいものであろう。ただ、自然を素直に現しているところに無限の安らぎがある歌である。


山高うして白雲の飛ぶを礙げず

どんなに山が高くても決して雲の行方を妨げたりはしない。という語句に潜ませている底意は、総て因縁会遇(であい)ながら、それぞれ独立独歩の確固たる存在なのである。他を羨んだり侵したりしてはならぬということである。山がどんなに高くなっても絶対に雲を侵しはせぬし、トマトが如何にお化けのように大きくなったとしても決してかぼちゃに成るものではない。それぞれの存在を尊重しながら妨げ合わない関係こそ自然の美しい姿であるということを借りて、自然の自己無き美しさを標準とし、勉強や修業はどれほどしても、又善意であり、善行であれば、社会や人生にとって妨げになるものではないと諭し、又山になれ、雲になれ、畢竟無我になれと激励しているのである。


夢の世にゆめみて暮らす夢人の夢物語するも夢なり

夢という言葉も、定着性の無い、時と共に過ぎ去り消え去って行く無常の代表としてよく使われる。変化を夢と見ればこの世は夢に違いない。その中に在って一時しかない享楽に興じる人はまさに夢人である。夢である限りどんな楽しいことでもおいしい御馳走であっても、決して腹も太らぬし味も無い。例え辛いことが在っても本当に汗して獲得した人生は自分にとって価値があるし、味が在り、光と影とが一つになって未来を開くことが出来る。
夢も夢ながら真実の夢なら、夢ながら真実なのだ。真実は夢と違い必ずそれに相応しい結果が在る。原因結果という大自然の戒律のままにあることは、決して夢ではすまされぬと言う厳しさを忘れるな。夢物語をせず、今を真実に生きなければ真実はない。夢になるばかりである。


一枝梅花和雪香  一枝の梅花 雪に和して香し

厳しい寒さに人も大地も皆春の到来を待って耐えている中、魁の梅が一枝。昨夜の雪をほんのりかぶった趣は格別である。可憐でこよなく風情があるのも当然だ。とにかく春はそこまで来ている。自然の営み、これこそ大宇宙の生命力であり掟ではないか。原因が在れば必ず結果がある。結果があるところには必ず原因があるということだ。絶対なる因果律があるから信ずる事ができ、矛盾無く流転するのだ。何と有難い事ではないか。自然の妙とはよく言ったものだ。だから我等もこの様に、寒くても熱くても辛くても嬉しくても、順境であれ逆境であれ、総て一時の様子に過ぎないので、在るべきように任せて是の如く静かに在ればよい。さすれば、時節は自ずから到来する。そのことを信じて物事を長期的に見ることである。すると心は自ずから馥いくとし、知足の境が現成するであろう。これから満開に向う梅。もうすぐ消えて行く雪。春風を誘い、春風に散っていく春の無情の、この理屈の無い自然の趣に陶酔するが良い。香の字も禅語句によく使う。どうあれ程よい加減だぞという意と、どこにも執着の余地なぞ無いぞと言う意なり。大自然の自己の無く自由な働きを見て取らなければならない。


梅花は寒苦を経て清香を発す

梅花はあの厳しい寒さを堪え忍んで、しかる後初めてあの美しい花と、あの高貴なるダイヤモンドの香りを発するのだ。これこそ梅花の命であり誇りであり存在の尊さであろう。我々が学ばねばならない道がそこにある。即ち、人生理想を持ち、それを達成するためには忍耐と努力と継続がなければならないということだ。人間徳を積む事を怠ると、自ら道を失い荒廃していく精神によって、空しい生涯を送る事になる。何気無しに眼中に大自然がある。それは片時も留る事の無い無常と因縁無量の躍如たる姿に他なら無い。因縁が無量にあると言う事は、心も従って無量無遍の姿に展開するということなのだ。自然からは先ずその事を学ばなければならない。ところが、心ここにあらざれば見れども見えず、耳あっても聞こえず。つまり、自分で自分が見えないと言う事なのである。叡知とは、見えざるものを見、聞こえない声を聞く力である。それは自然と言う無限大の存在に対して、その尊厳を畏懼し畏敬する事から始まる。梅花の持つ因縁無量を感得する時、その人は既に梅花となり、大自然の窮まりない世界の人となっているのである。知らぬ者が自ら知らぬだけである。知るものは囚われざるが故に、対立せざる境にあって悠々。ただ、努力無くしてはあり得ない事は因果のよく示すところなりき。


水月 すいげつ

静かな水面にある月の光景をいう。有って無いこと。この世の無常や夢のような人生などを、美しい一幅の絵で語ったものだ。この無自性空こそ一番確かな真実であり宇宙の命なのである。汚れの無い水月に成れ、拘れない本質を良く見よ、との意である。


雲 くも

水月が水中なら、こちらは空中である。
足無くて雲の走るも怪しきに 心と問はば何と答えん。雲の正体は雲に問い、雲に参じなければ分からぬ。自然科学的な物質的学問的探求を言っているのではない。それで安心が徹底できるのであれば学者は皆悟っているはずではないか。心というものは、そんな概念操作などで手に負える代物ではない。雲に問うとは、雲に成るということである。参ずるというも同じだ。何でもであるが総て因縁の寄せ集め、物も縁の塊であって、縁が尽きれば消えてなくなる。これが真理である。されば、雲に成るとは、雲という縁を借りてそればかりになり、我を忘れることをいう。満身雲となって、一点の理会も無くなればそれで自覚すべきものが有るのだ。だから雲も無心の代名詞、無常の代名詞として心の友とするがよい。


水中天  水中の天

水月に同じ故に説くに及ばず。月も天も縁は同じ縁である。相(形や色などの現象的形状のこと)を認め、それに捕われるから縁と対立する。そこから諸悪が生まれてくる。自己なければ、水が自己と現じ、自己が月となり、又水が天ともなるのだ。知性を暗ますものは自己であり、自己を暗ますのはまた知性である。どちらも両極的存在ではなく、総て一つ心の自由な躍動的現象である。固定性が無いからどの様にでも働くのが心であり一切である。ただ、知性や感情が、対立した状態で働き出すから混乱することになる。とにかく、真実の今、この一瞬の正体がはっきりしなければ、心の折り合う根本が無いがために、取り留めもなく縁に翻弄され続ける。この事実をまず知っていなければならぬ。水中の天とは、ただ、そのまま、水中に映っている天の、限りなく自然の妙味を味わっておればよい。直に理屈を付けて見たがるものだ。鏡に映った世界と同様である。皆単なる縁の物であり影だということである。認めて取り付くと大変だぞと言う祖師の慈悲こそ尊けれ。


世の中は今より外になかりけり昨日は過ぎつ明日は知られず

人間には自己中心の強い執着心があり、金銭物品を限りなく求め、また名誉や地位などの欲に精神が翻弄されていく。存在の権利として自己実現要求を満たすことに毎日汲々として生きている。この精神現象は原始型であり生物本能の生命現象と言うことが出来る。それが知性と合体して理想や夢を抱く。つまり創造をもたらす精神因子によるものである。より高次に、より公益性の高い精神性から発したものは善であるが、自己益のために発したものは度が過ぎれば絶大なる害となる。親兄弟であっても殺し、戦争も起こしていく。これ皆自我より生ずる執着心からである。
これは本来の事理・理事を知らぬからだ。それは、どんなに素晴らしい出来事でも、どのような悲しいことでも、過ぎたことは総て過去であり、今のこの明らかな現実には無いから、総て夢である。また如何なる素晴らしい理想も、未来は皆現実にはないが故に夢でしかない。しかし、明らかに今は、過去のちゃんとした原因によってその結果、今それが現実化しているということである。又、今が有る以上、この現実が原因となって必ずその結果が出てくる。その現実化が未来の世界なのである。従って本当にある世界は、常にこの因果同時の今、この時しかない。その今は、片時も留ること無く過去を形成しつつ、同時に未来を構成している躍動界そのものなのだ。これが宇宙の命であり、無情の働きなのである。だから、明日の夢を追いすぎて今を失脚したり、過去に囚われて今を見失ったりしては何もならないということである。人生たかだか七八〇年でしかない。やがては一筋の煙と化し、土に返さねばならない恐ろしい確固とした宇宙の掟が有る。今しかない厳しい現実を自覚することで、どんなにか無駄な囚われや精神的浪費を解消することが出来るのみならず、理屈さえなければ今と言うこの絶大な時が永遠の世界だという大自覚を得ることが出来る。そのまま涅槃を満喫し彼岸で寝て暮らせるのだ。次の歌をよく噛みしめるとよい。
   今と言う 今なる時はなかりけり 「ま」の時来れば「い」の時は去る 


千山の緑風 湖中に香る

千山とは山又山なり。どこまで行っても連山の内である。寒気去って春来れば、花咲き、鳥鳴き、新緑萌ゆ。山中春の真っ只中。どこから吹いても緑風であり、春の極まるところではないか。そこに古来より悠然と佇む湖がある。山中の湖面、水波静かにして鏡のごとし。湖中の千山緑風香し。絵になるどころではない、全身の細胞が小踊りするのは当たり前だ。感動しうっとりし又感動して、時の過ぎるのも忘れてしまう。情あり、顔あり、語りあり、香りあり、命ありき。君に告ぐ、言を発すること莫れ。その意如何。語り尽くして既に充分。
我を取られてほととぎす 湖中の白雲去って悠々


語り尽くす山雲海月の情

こうした自然の情景は総ての分野で語られている。それは限りなく美しくあらゆる源であり、源の持つ豊さと奥深さ、そして幽玄さ神秘さなど、語り切ることが永遠に出来ない大きな存在だからである。とにかく自然は理屈抜きに存在している、そのこと自体が自然なのである。このところを中心に語ったものが禅の語句と思えばよい。つまり、どのような力や創造主によって出来たかとか、現れたかと言う一切の詮索を離れた、自分の見解を総て越えた廓然(何も無いからっぽ)の世界は二つは無い。自己も無く自然も無い。見たままである。聞くままである。思うままである。感ずるままである。生まれるまま、死ぬまま、そのままそれであるほど完全なものはない。また自由な世界も無い。ただ因果の正直な様子に過ぎない。言ってみれば、自然は単なる無機物的無味乾燥に思える単なる因果律の世界であるのに、このように限りなく豊で美しい。これが本来の大自然であり、それこそ命を育んできた世界であることを、知れば知るほど絶妙な世界と言うことが分かる。語り尽くす山雲海月の情、今、これ以上更に何をか求む。
我々人間を取り巻く自然は、もはや命そのものであり、この身体の本でもある。心も自然の働きであり、同時同事の一体である。だから見る底これ自己である。見る底これ仏法である。見る底これ諸仏である。見る底これ満足である。我々は諸仏と同事同参であることを知ればよい。道元禅師曰く、「谿声山色これ諸仏の広長舌」と。その通り、その通り。そのためには自らの仏を見いださねば成らぬ。
なお語り尽くす山雲海月の情。人あって我に自然を問わば、語句の終わらざるにひっぱたくぞ! 人は通るうちに見よ。へは臭いうちに嗅げ。呵々大笑。
風はかたる自然の妙 月は照す空天の華

俗に、人間は感情の動物であると言う。気持のいい方へと流れ、苦痛や嫌なことから逃れようとするのは、命を持つ生物として当然のことである。それを利用して人の心を弄ぶ輩もでてくるのが人間の汚いところであり業である。人の中傷は如何にも心地悪いし、人の心はすぐに傷つく極めてデリケートな存在である。そんなごたごたした煩わしい事柄は、知性と感情とがいろいろ想像しイメージする事で、精神の安定を常に失った状態にあるからだ。人間とはげにつまらぬ事をわざわざして自ら苦しむ哀れな生き物ではないか。そうした世俗の濁れを、只聞き、只見、只行為する力が浄化してくれる。この力を境界辺と言う。世間とはそうした人の集まりじゃと達観して、拘らずさらさらと過ごすのである。
  心をば水の如くにもちなして 方と円とを物に任せん
心を空にして、己の信念のままに誠で生きておればそれでよいではないか。順境も良し。逆境も又良し。降る雨は必ず晴れる。晴れの日ばかりではない、必ず降る。嵐はちと困るけれども、これも自然の豊な力であり働きであり、清風と共に又自然の面白味ではないか。風鈴は微風を誘って香しである。夜来の風雨、芭蕉に当たって断腸すじゃ。うら侘しく悲しくなって泣く人もあるじゃ。風さらに何をか語る。月は夜道を照し、人の往来を妨げず。あな有難や。波に砕ける月明り。一際奇麗ではないか。只何となく、何となく今宵の月。空天の華の美しさじゃ。心の汚れなく円満な様子に非らずや。汝自身を知れば可なり天然の月。


知らず誰か是れ雪中の人

しんしんと降る雪の中に立って朝を迎えた祖師。達磨大師の神足・神光慧可大師その人。しかし、決着がついていなかった迷いの真っ最中の出来事である。遂に自らの腕を切り落とした。仏法伝え難し。磨に曰く、「心未だ安んぜず。乞う、師、安心せしめ給え」と。磨曰く、「心をもち来たれ。汝がために安んぜん」。祖曰く、「心を求むるに遂に不可得」と。磨曰く、「汝がために安心しおわんぬ」。ここで本当に決定が付いた。まさに鈍中の鈍、菩提心の結晶である。身命を堵しての求道心は何者も寄りつく余地がない。真なり、実なり。これが本当の菩提心であり標準である。真露堂々なり。箇事了畢、行き着いた処じゃ。これを法と言う。それを悟りと言う。その人を仏と言う。元々一杯一杯故に、本当に信じて行ぜよ。振り返り見る事なくんば隔てなし。行は徹するを宗旨とするなり。真中の真を得んがためなり。心の解決を求めて身を捨てて本当にやれば誰もがそうなる。私は既に知り過ぎているのだが、雪の中に立っていた者は一体誰だと思うか。おまえさん、この事を自分自身によーく聞いて、そして本当に納得するまで追求し切ってみるがよい。他の誰でもない事が解った時、歓喜の涙を流して雪中の人に感謝するであろう。本当に自己仏と相見すれば人生の大事ここに極まれり。
   少林の雪にしたたる唐紅(からくれない)に 染よ心の色あさくとも
切り落とした時の鮮血、あたりの雪を染めた。菩提心の象徴である。人生は短いぞ。お前も死ぬ時が来て狼狽えるなよ。少しでもいいからこの雪中断臂の人を見習ったらどうじゃ、と。奮起し、彼のごとくやれば、みな雪中の人ではないか。誰か是れ雪中の人。俺じゃ! 俺じゃ! と踊り出す者あらば、まさに大法の幸せなり。


春は花、夏時鳥、秋は月、冬雪さえて凉しかりけり

これはあの永平寺をお開きなった道元禅師の御歌なり。どこにも理屈や分別が無いところに目を付けるがよい。純の純、それが真実と言うことである。では、真実でないものがあるか、どうじゃ。ただ自己があるから心に問題が起こる、ただそれだけである。ただそれだけの世界が大自然であり、自己がなければ総て大自然である。自然と自然の出会いこそ、天下第一の大安楽境ではないか。じつは自然など語る必要はなかったのだが、ちょっと言うて見たかったのじゃと。大自然の無心にして絶妙、風流の流転の面白さ、四季が訪れ、又去って行く様をありのまま語っている。自然のままに、親しく素直にあられる道元禅師のお姿が目に浮かぶ。絶妙の風情を日常にしているところが道元禅師の独壇場である。そは、命懸けで修行した後の風光であることを忘れてはならぬ。


波濤砕長夜眠  波濤は砕く長夜の眠り

教えや激励、注意とか礼賛という、或る種の願いや意志の伝達には直接と間接とがある。注意にも、駿馬は鞭影を見て走る、(駿馬は一見して乗り手の器量を知り、走れと言うための振り上げた鞭の影を見ただけで駆け出していく)と言う訓語が有るが、人の振りみて我が振り直せと囁くように一言言っただけで、上根の士はほんの僅かなきっかけで重大な示唆を感知し機能するものである。次元の高い世界ほどに本人の資質と熱意が要求される。従って事こまかな指示説明を省いていく。着いてこれる者しか体得出来ないからだ。海を見てはその果てしない広さと何物でも受け入れていく途轍もない寛容さを悟り、石を見てはその堅固さと、その大小の石が醸す不動なる力強き存在から忍耐を自覚したりして、己の小ささを恥じたり反省したりするものである。今、岩にぶち当たっては四方に砕け散る波濤を見るに付け、その激しさと怯まず繰り返して挑む捨て身の凄まじさに圧倒。自分は何と弱々しく努力の鈍いことか。何かが落ちて永い眠りから覚めたようだ。人生は短い、時は待ってはくれぬ。よし、先人に恥じぬよう頑張るぞ! 私も彼らと同じ人間だもの、頑張れぬ筈はない! と響く人は必ず救われることを信ずるべきである。若し或いは響かざれば、尚長夜の眠りの人。恥ずべきにあらずや。


春風過戸寒、百花為誰開  春風戸を過ぎて寒し、百花誰がために開く

寒々しい冬にあっては一日も早い春の到来を待つものである。冬なればこそ春の暖かさが有り難いのではないだろうか。早春は暖かい日もあるが突然真冬の時もある。日中の陽光は大地を一変に生き返えらせるようだが、夜は尚厳しい寒さではないか。それが早春というものであろう。だが日を重ねるにつれて次第に春らしくなる。当たり前ではあるがそんな春風はまだ不安定でありどこか冷たいものだ。家の前をすり抜けていく風は私には寒い。でも、そのような風の中にあってさえも、大地は花々を咲かせるべく準備していることを思うと、花は一体誰のために咲くのだろうかとふと思う。これが句の意味であるが、しかし、と続く語が隠されている。これを隠語という。我々の修行や生活は誰のためにではない。誰のためにではないのではない。自分があると他人がある。現実の人間世界はそうである。だが、自分がという意識や認める以前に存在している。自他はない。それが現象である。従って現象である存在は自己以前である。総ては無自己なのだ。生活があることは自然であり、人それぞれであるから様子が皆異なっている。思えば人の世界とは厳しいものだ。その様に筋立てようとして見たりすると衝突する。もっと自然で、自己なくありのままにあれば、花は誰のために咲くのでもなく、只そこに、その時、その様に有る。それが自然であり存在である。月は誰という区別無く明るく夜の道を照らしている事が分かるはずだ。悉く無為の存在であり、人間が手の着けようのない凄まじくも素晴らしい世界ではないか、と言いつつ、花は只優しく愛でる者の世界であるぞ。それこそそれは一体誰なのだろうかと参究せよ、と言いたいのだ。

                  平成九年三月九日 初版第一刷発行

                   著   者  井上希道
                   発 行 所  少 林 窟 道 場
                            広島県竹原市忠海町四二九一