井上希道講演録

心の時代に向けて


此の度ほど縁というものの偉大さを感じた事はございません。縁とはまさしく摩訶不思議で大変なものなのだなあとつくづく感じた次第です。この度の会議も、或る一冊の本の起こしました波に過ぎないのですが、縁というものは本当に不思議な働きをするものだと。たまたま一冊の本と人とのふとした出会いから、こうした道に発展したのですが、先程来より司会をなさって居られますハイセンス(現在のフェリシモ)の会長でいらっしゃる矢崎道然居士こそ、その人であります。その本をお読みになりまして遥々尋ねて来られました。その時私はお一人がお見えになるかと思っていましたら、こちらにいらっしゃる女性一人を含めて四人でお見えになりました。矢崎さんの色々な質問の中には私の胸を躍らせるような、仏法のぎりぎりを鋭く尋ねられたものもございました。基本的な着眼点が既に分かっていて尋ねるのですから、こちらはつい嬉しくなり本気になった訳です。更に感心させられましたのは、この人は本当に社員の方々と人間同士として語って居られる。従属関係で連れてきたんではない。本当に心で語り合い、心の通じ合える仲間なんだ。そう思いました。従って皆さん自主的にお見えになった方々だなと。これが実感でした。話しがいのある二時間があっと言う間に経っていたのを覚えて居ります。
その時、たまたま書道家の女性が参禅入門する時でした。「二週間の後に、この人がどのように変られるか是非おいでて自分の目で確かめて見て下さい」と、軽い気持で申し上げたら、約束通り常務の三木さんとお見えになった訳です。長い人生のうちのたかだか二週間と申しましても、当節はどなたも大変お忙しいので、なかなか取れるものではありませんし、ましてや坐禅に没頭するなんて事は大変な事です。ですからそうした参禅が終わられた時、ほとんど恒例になっておりますが、慰労と激励のささやかな宴を、その人のために持つことにしております。人生を通して究極の道を研参することの重要性などを語って別れるための大切な行事なのです。そこへ来ていただいたという次第です。
さわやかになった様子を見ていただき、うなずいていただいて、慰労と送別ですからビールなど飲みます。その時に私がちょっとホラを申し上げた事がきっかけとなり、地球規模の救済はどうすれば可能かという話になってしまったんです。
私はかねてより地球がこのように汚染され、世が乱れていくというのは人間性を失って自由はただの欲望追求へと走り、権利主張社会に一人一人がしてしまったものをどうすればよいのだろう。とにかくこのままでは大変だから何とかしなければと、皆が真剣に語ったのです。たった一人の自己自身の心の始末が出来ない限りは、いかに高邁な論理を展開させたとしてもなんにもならない。現代社会に於ては益々精神の汚染化も進んでいくと、そうするというと何としても指導者の身心をよく癒して、ゆとりある視点から将来を見極め誤らないようになっていただかなければどうにもならないのではないだろうか。その為に小さくて内容の充実した施設を、この美しい瀬戸内の無人島にこしらえて、そういう人たちだけ静かに来ていただいて、世界の違う人、立場の違う人達が、本当に国を危ぶみ世界を危ぶみ人類の将来を危ぶむ本音の部分で語り合ってもらいたい。そうすれば文化が異なり学際が異なり国家の立場が異なっていても、人類の将来のためという新しい統合化した高い価値観を確立できるのではないだろうか。とにかく、政治家も経財界の人も科学者教育者も、我欲を離れた高い理想と純粋な情熱がなければならない。さらに現実を直視した危機感と人類への切実な愛情が今絶対必要なのだ。さすれば意識に絶大な飛躍がある筈だ。使命感と同時に目的意識がはっきりして来るのだ。優れた有識者との交わりで内在する疑問点も解けていくであろうし、解決策や高い発想も生じるはずだ。そして元の自分の持ち場に帰って存分に働いてもらうと。これならば同志が集まれば出来ないことではない筈だ。そして集まっていただいた時に、ちゃんと心の整理がついた人が全部お世話をし、必要に応じて坐禅もしたりしていけば、確かに効果があるのではないかと。国を司どり社会を動かし大きな責任を担って居られるような第一級の人達がお集りいただけるような、そこへ行けば心から休息できて、優れた誰かが居て、多くの気付きと爽やかな情熱が得られる安らかな充電所として愛されるサロンがなければならない。それを作りたい。またそういう人方のプライバシーを完全に守り切れる力もった人を育てなければならないと。
お酒の都合上、そういう事がポロッと口から出てしまったのです。それが縁になりまして、矢崎さんの或るものを大変刺激してしまったのです。そこから話が急速に展開しまして、先程清水先生からご紹介されましたあの経緯になったわけなんです。
全くたった一言の、そしてたいしたことを書いているわけではない本が、こういう展開になってしまったこの縁の不思議さ。私達がまさに理想を追求していかなければならない上で、成るか成らないかは理想や情熱だけではなく、どうしても運命とも言える縁がなければ結果へと発展して行かないということを、よく弁える必要があるということなんです。
いきなり話が西洋に飛ぶんでありますが、矢崎さんの発願はフランスに本格的な坐禅堂を建立することからでした。そのためには西洋の文化など、違いと特徴を知らなければ充分な指導ができないからとロンドン・ローマなど、私生まれて初めて日本を離れ色々な国を見せて頂きました。最後にフランスのベネゼクト派の、一〇〇人ぐらいいらっしたでしょうか、秀才ばかりの修道士が生涯をかけて研参されておられる大修道院へ御案内頂きました。「何しに来られたんか」という副院長さんの質問が最初にありまして、私は「まさに人類が限りなく開発することによって、不便を便にし、益々楽を産むことが出来たが、その結果が人心を低下させ地球をこういうふうにしてきた。このことは大変危機的な事であるから、お互い宗教家として東洋の仏教と、西洋のキリスト教の教えを今こそ出し合って、精神界を担当する私達が精神の指導をしていかなければならないのではないか。そういうことにおいてここで大いに学びたいのでよろしく」ということを申し上げた。そのことについては全然解答がいただけませんでした。いただけなかったことで西洋の文化の底辺をなして来たキリスト教の思想的なものが、これからの社会にどのように係わっていくのか益々分からなくなりまして、困ったことだなと実は思ったんです。自己満足のための修行では駄目だと。何となれば己れを越えなければ慈悲心が起こって来ないからです。
しかしその中で、我流ではあるが坐禅をしている人がずっと最後まで私達と行動を共にして下さいました。帰りぎわに、心を究める修行の一番大事な要点をお話したんです。その人も一生涯かけて神の心を追求する訳ですから、それはもう真剣そのものです。自分で自分を知るということは実は大変困難なことなのです。感じたり思ったりした時には既に捕らわれて形態化した後であって、心そのものではないからです。西洋の分析法を用いて精神分析をしていくことは、今日大変進んでおるようですけれども、瞬間のこの一念は何処からどうやって生まれるか、どうやって何処へ滅して行くかと言う、その現われる一瞬の様子とか其の内容については、一秒の一〇〇分の一、一〇〇〇分の一の精度で心自体を見切って行かないと、把握することが出来ないんですね。そこのぎりぎりのところの着眼工夫をお話いたしましたら、彼等の顔が見る見る変わって行くんです。それほど彼らが真剣であったということです。ミサと読書と暝想と、そして作務ですね。この間に自己を発見していくというようなことは、ちゃんとした指導者がいてなら可能ですが、聞くところによりますと、全然その指導者がない。指導者がいないということは、それぞれ勝手にやっているということなんですね。まかり間違えば、一生を棒に振ってしまうんです。お墓を見させていただきましたけれども、本当に無念であったろうと、真剣であればあるほど、無念であったろうなとつくづく無駄骨折った生涯を哀れに思いました。
その中で感じたましのは、彼らは自分が満足する解釈を極めるということしか目的はないのです。それなりに心の参究をしておるんでしょうけれども、実社会に対する宗教家としての使命感のようなものをお持ちでなかったという事は、宗教の本分を弁えていないという事なのです。この事をくどく申し上げるのには立派な訳があるからです。
政治家も軍人も、夜昼無く命懸けで国を守り、商売人は体を張ってすみずみまで生活物資を運び、御百姓さんは朝早くから夕方まで労働に従事して社会を構成しているんですが、宗教家は織らずして身に纏い、耕さずして食らい、戦わずして平和に生きる。世間の人は修行者のように心を究明し高い精神に達したくても時間の余裕が無いのです。人間としての不安や悩みなどを純度のよい高い精神で解決するてだてを獲得できないのです。常に人としての道を諭し、世の歪を正す心得を説き、皆が健康で快適な人生を送るための端的な方法を確立させ、人々の求めに応じていかなければ何のための修行かという事です。衆生済度は宗教家の使命であり任務であって、そのための修行だから、根本から己れを捨てて修行しなければ意味が無いのです。東洋の仏教と西洋の宗教の根本的な違いがそこにあるのです。
これを大乗と小乗とに分けて見ますと、自己満足のためは小乗なんですね。一旦自己が解決されて仕舞うというと、苦しみがそのまま喜びになり救いになり光明になりますから、いきなり大乗の器にポッと生まれるんです。人が的外れなことで苦しんでおると、「そんなつまらんことしたら駄目だ、一生を棒に振るぞ」と言う叫びが心から起こってくるのです。慈悲心となって精神全体が躍動し同時に行動化するのです。自己が破れると拘りが無くなってしまうので、自然に煩悩が煩悩たり得なくなるのです。そこから自然に慈愛が沸き上がり、しかも限りが無いのです。これを大乗の心と言うのです。苦しみの根源である自我を解決するのが本当の修行であって、自我を認めた修行は何処まで行っても解脱を得ることは出来ないのです。そうである限りは絶対に自己中心に見聞覚知が働きますから、この一瞬々々の心は本当の無限大の輝きを見せない、自由が現われてこないんです。解決しますというと、もう瞬間の働き以外にはないという確信が生まれてきます。執着心も又瞬間の働きで、努力の継続力へと高まり一元化して、低次の嫌らしい執着とはならないのです。そこから初めて慈悲心が飛び出してくるわけです。つまり、自然に慈悲心が注がれて初めて真の宗教と言えるのです。大乗と小乗との違いは、自我を取るか取らないかであり、煩悩即菩提の体得にかかっているということなのです。
長い余談でしたが、「意識改革なくして地球救済は有り得ない」と。その修道士の修行のあり方を見まして、こんなに真剣に努力しても方法なしでやっては一生を棒に振る。そして今やっておるのは小乗的でしかないけれども、方法さえ彼等に納得してやっていただいたら、即大乗になる。それはそのまま社会を憂えるようになり、本当の慈愛が湧き出て、世のため人のため真理のために限りなく躍動して行くようになる。そこからの貢献度というものは計り知れないのだ。たった一人の修道士の明かな変わり様を見た時に、ああこの人の為にも禅堂は作るべきだと思いました。この人一人が救われ本当に苦しみがとれて喜びを持っていただいたら、後は彼らの言葉で、彼らの思想で、すぐそばの苦しんでおる人やその方法がわからなくて迷っておる人を救うであろうと。今本当に必要なのはちゃんとした精神改革の指導が出来る人なのです。
世が乱れれば乱れるほど、人心は物・金・名誉・権力を求めるようになり、虚偽と詐取が横行し、徳を培ったり人間の誇りとか尊厳などは押しやられてしまうものです。だからこそこの道が必要なのです。そういうリーダーの方々であれば中心は乱れないのです。指導者に道がなければ国が滅びる所以です。坐禅をして自我を越え道を体得していただいたら、政治にしろ経済にしろ、文化、医療技術、あらゆる人が何のために携わるかという根本意義の自覚と使命感に目覚めることが出来ます。それは人間として真に生きておる絶対価値観の体得であり、拘りの無い慈愛への昇華であります。本当の倫理観というものは、自分の正体をはっきりさせればちゃんと備っていることに気付くもので、本来の我々の心がそれなんです。そこからは何でも命に見える無限大の心の眼となるのです。
本当に究極のところに目覚めていきさえしたら皆同じことであるし、同じひとつ心で、立場こそ違うけれども、同じく美しい内容で見ていける。そうすれば国も治まり世界も治まっていく人間完成の到達点なのです。
禅は決してロジックで伝えられるものではありません。坐禅は思想的な受け取られ方をするように説いてはならないのです。行ずるだけです。その心得をしっかり指導する、ただそれだけです。
では、説くとしたら何を説くのかというと、自分達は空しい無常の存在ということを自覚させることであり、人生というものは今、この一瞬の縁の限りのものでしかないということを教えるのです。もっと言えば、具体的には今の見聞覚知であり、それは眼耳鼻舌身意が色声香味触法として機能し活動している事を人生と呼んでいるのだと言うこと。だからそういう限られた人生を「いかに生きるべきか」ということの根源的着眼を知らしめなければならないのです。つまり無常観の啓発と自覚です。そして無常の無限性即ち大自然の無我に目覚めることが本当の救いであり信念になるということ。宗教とはそのことを教えているのです。ですから、根源的で共鳴しやすく異論は無いはずです。出発点はここからです。
そのいかに生きるかのポイントが自己自身を解決つけるということですから、その方法が「ああ、そうやればよいんか」ということが分かっていただいたら、後はやる気を起こさせるということなんですね。このやる気を起こさせるということは、人それぞれの価値観人生観があって、分かったからやる気が出ると言う代物ではありません。矢張り時節に任せ縁に従うしかないのです。やる気というのは、最も原始的根源的なところに目覚めてエネルギー化することなんです。行動を起こしたらもう説明やロジックはいらないんですね。そこからは解脱の道の為の方法をひたすら実行するだけです。
私共の仕事はまさにここからです。ここからは心を解決付けた体得者でなければ指導は出来ません。従って矢崎氏が、「禅堂を建てて真の指導者を送り出し、意識改革をして地球を救いたい」というその念願、たかだか一箇、半箇から出発するわけですけれども、その一箇、半箇の広がりと因縁力と言うんでしょうか、伝播力と言うんでしょうか、それは計り知ることが出来ない縁の力なのです。社会がこういうふうになっていけばいくほど、自己破壊の危機感を感ずる人が続出し、本当に苦しむ人が増えるでしょう。そうしますというと、救いを求めての集まりもまた増えるのではないか、そういう魂の救済を必要としているという兆しを此の度感じて帰国した次第です。
人間の心は楽な方へ楽な方へ、欲望を満たしてくれる方へくれる方へと、名誉欲や金銭物欲や権力欲などを正当化しつつ向かっていく指向性を持っています。これが普通の人の状態です。この様に徳性を後回しにした状態にあれば、とにかく自分中心でしかありません。その外の総てはぐんと軽くなってしまって、人間らしく輝かないのです。自分の問題として捉える真剣さ真実さが欠如しているということを恐れるのです。
例えば医の倫理などよく叫ばれますけれども、仏法から死というものをどう捉えておるかと言いますと、死も命なんです。ことごとく私の目から見ますというと命であって、命でないものはない。ただ生物一生の時間的生命ということになりますというと、これはもう学者の先生方の言われるあの命なんですね。そのことについて何も問題化する事柄は無い筈です。ところが、科学技術や医療技術の向上に伴って延命医療が行き過ぎ臓器移植等が問題化して来ました。自然でなくなったから問題となってきたのです。片方の人を救わんがために、死の決定を急ぎ過ぎては甚だ困る訳ですが、右から左へ人の一部を部品として持って行くという不自然な事を正当化しようとするからおかしなことになるのです。今の日本は医者だけが命の管理権利が有るごとくの振舞いです。しかし、栄え有る人生の最後に至って、激痛に狂い死ぬことになっても平気で只々延命ばかりの治療というものは、人の尊厳を無視した野蛮な行為であることも知らなければなりません。
私たちの回りの総てが人間と直接深く係わっています。こういうふうな時代になってまいりますというと、便利だけを追求して来たが、結局は自分達の地球を自分達で危機的にまで追いやって、自分達が生きて行けなくなりそうになって来て、これからどのように生きるべきかの自覚と対応が急務だと慌て出したのです。それで改めて、じゃ人生というものをどのように考えれば良いのか、ということになってやっぱりここへ帰納して来るしかないのです。
戦前の様な時代は、必需品さえどうにか手に入りさえすれば幸せでした。現代の我が国に於ては、有りすぎる物の中で満たして貰えないものは只精神面だけです。物資は有余っていて心が無い。是れだけは物金ではどうにもなりません。それはゴーストタウンのように空しく侘しいものです。最後の自分の身柄についてまでも、ちゃんと指示して人生の終末を迎えなければ、体の部品化が急速に進んで行くでしょう。誰がその様にしたのか。その自覚と責任を今問われている訳です。
今や、人生観というものは自分一人の受身の精神的世界ではなく、生活環境から医療環境等直接に関係を形成していくという能動化の方向を含んだものでなければなりません。そうでなければ未来が良くなって行かないからです。そういう健全な人生観が形成出来る元ととなる思想などもこれから普及させていかなければならないと思う訳です。その中心は必ず自己を究め高めて行くという精神改革を目指したものでなければなりません。どのような学問であっても社会的立場であっても、最後は「幸せ」へ帰着する訳ですから、誰もが自己確立のための努力をしなければならない、人間としての条件であると申上げておきます。
その上でならどんなに文明を発達させましても、道を誤ることはないのです。何故かと申しますと、その様な自己確立がなされていれば、例え利潤追求の企業体であっても上から下まで人格が高くなっていますから、価値基準も従って高い訳です。そのこと自体、概念も純度がよく判断もすっきりしていますので、自ずから存する所の倫理観が判定を正しく保ち、自己規制的にのみならず文化的にも高く働きます。得た利潤を公益性の高い社会還元をして、人類に広く貢献することを誇りにして事業が出来るという訳であります。つまり、自己絶対・他否定の俗悪な欲望追求が高い精神で解消されるのです。
どうも物を発達させるとか、科学技術を発達させるとかは、ゆとりや遊び心や自己実現要求が無ければ続かないものです。理想実現の精神エネルギーとはそんなものなんです。行き過ぎた科学技術・科学文明は、命さえも人工的に獲得出来るとさえ思わせてしまいます。その結果、自然の摂理と運命に対する畏れや謙虚さを喪失させて、自らを律し潔く淡々と清らかに生きるという、健全な生命観と申しますか人間の誇りを喪失させてしまいます。個の成長と確立を疎外してしまうということです。人間にとって、努力と我慢と諦めとそして理想は人格形成には不可欠な要素ですが、多すぎても少なすぎても害となるだけに、総ては調和が必要なのです。どうしても精神そのものの向上がいるのです。
人間たかだか一〇〇年の生涯と限られています。命がそれほどに大切であればこそ、人間に生まれたことだけでも運命に感謝し親に感謝すべき一大事因縁の存在であります。この事は時間的に生命を長く生き長らえることだけが最高に価値あるものではなく、今一瞬・今日一日を如何に静かに素直に時を迎え、時を送るかという自己到達の質なのです。堂々と自信を持ち誇りを持って命を輝かせてくれますのも、文明的時間的生命観ではなく、この自己超越的無限生命観によるものです。こうした自己確立こそ存在の原点であり真の生き方なのです。この大自覚が、二十一世紀のみならず恒久平和と安全な発展をもたらせる源なのです。早く一人一人がこの事に気づかれて、確かな人生観に達すべく努力して欲しいものと切に願っている一人です。
先生方のお力をお借りしたいのは、今後各学会、各場所で、「物を追求し物で生きる時代はもう終わりにしなければならない。本当に行き着くところは自分自身の心の改革しかないし、その方法は坐禅がいいのではないか」という事を説いて頂きたいのであります。とにかく科学への信頼度というものは絶大で、科学者の言葉はそのまま真理とさえ思われています。ですから先生方による説得は絶大なものがございますので、人間同士の訣盟として人類を守るために是非とも御協力頂きたいのであります。

時間が経ってしまいますが、参禅の様子をちょっとお話させて頂きます。生々しい例で申上げますと、今日こちらに三人の女性がいらっしゃいますが、つい先月ですが十月十五日より私の道場へ坐禅に来られまして、一週間ほど命懸けの努力をされました。一週間の到達点は、本当の修行・雑念を切り心を帰着させることが出来る、解脱への道がはっきりし大変楽になった事です。これだけでも一生かかってさえ到達できない修行者が殆どです。
その時の坐禅の様子を聞きますと、それは凄じいものです。
坐禅の目的は自己を究めることにあります。解脱することです。それは思うほど簡単なものではありませんが、だからと言って高度で複雑な知的努力という難しい事をするものではありません。自己の根源を自分で見極めるだけの事なんです。誰もが非常に知りたい事だと存じます。ここからが大問題なのです。自己の本当の姿を見極めたくても、心は寸暇無く拡散していて、片時もじっとしてくれません。どうにもならないのが初心者です。ですから心として顕れる元の世界を看破したくても方向すら掴めないわけです。これは生まれてこの方、ずっと思うということ、即発的に感じ取るという訓練をし、そして出来るだけ多くの概念を取り込み、そしてそれを巧みに観念操作する力を付けパターン化してきました。これが総て間違っていると言うのではありません。それに支配されているから、生きた今の真実に気が付かなくなって、思いに振り回され苦しめられているのです。実はこれは大変なことで、過去の情報でもって心が動かされているということなんです。つまり本来の生きた今現在瞬間のそのものには絶対に触れることが出来ないということなんです。簡単に言えば執着という癖によって、過去から今を覗いているに過ぎないのです。本当の世界でありながら、その事の絶対観の確信がもたらされないと言うことは、本当の信念にはならないのです。それでは迷いと苦しみの雲が晴れませんので困ります。
この執着の癖を取り、過去と今との明晰な境を付け、観念や概念の外へ出た、捕らわれも何もない瞬間の今(無我)に目覚め、開放された世界の体得が禅の目的なのです。この世界を悟りとも解脱ともネハンとも言い、又彼岸とも言っています。自己の絶対究明とはこの事を言います。そのためにはどうしても拡散を収めなければなりません。今の一点をどこまでも守るのです。拡散を収めるには一点に心を置くことしかないのです。成り切るとはこの事なのです。成り切って我を忘れた消息が無我の体得なのです。我を忘れる道は、身をも心をも用いず、只ひたすら坐禅することなのです。
ところが拡散雑念の激しい三日間は大変なものです。はっと気が付いた時にはとんでもない事を考えています。それをとにかく払い切っては今の一念に戻るのです。さりながらただの二・三秒すらじっとすることなく、念・相・観に荒々しく翻弄され続けるのです。従ってこの様な内には、どんなに叱咤激励しても目的にはほど遠く、拡散雑念に振り回されっぱなしです。しかし、だからといってここで投げてしまっては何にもならないので、根気よく雑念を切っては今の一念を守る努力を続けるのです。これがこの時の修行なのです。特に二・三日目は落ち着き始めると共に自分の拡散状態が鮮明に見えて来て、切っても切っても限りなく襲い掛かる妄念に手ひどく痛め付けられ、精も根も尽き果ててしまいそうになるのです。そのところの苦しみは、いわゆる観念的なものばかりではなく、生理的にも耐えられなくなるのです。そこにいらっしゃる三人の女性皆坐禅されたんですが、同僚の福住さんのお話に依りますと、道本さんは雑念を切るために額を畳にたたき付けていたと言うんです。又、時どき手を叩く音がするので見てみたら、彼女は自分の頬を思い切り叩いていたと言うのです。「そうでもしないと、あれだけの妄念からは脱出することは出来ません。自分がどっちを向いて居るのか分らないし、気が狂いそうになって恐怖さえ起って来るんですもの・・・」と言う。これは本当にそうなんです。
私たちの心底の実体は、このままではそんなに不安定で頼りないものなんです。自分だと思っている心を、自分ではほんの一瞬すら見る事が出来ないのに、自分を信じ、自分の思うように信念を継続させる事なんて根本から出来る筈はないのです。知性も意志も教養も勝手に出没する雑念には何の力にもならないのです。知識や観念に向かってする訓練の様なもので、人格とか倫理観とかを確立しようとすること自体が根源的でないと言うことがお分りでしょうか。でも、自分で付けた癖ですから、正しい方法で努力さえすれば、総て自分の世界ですから必ずちゃんとなるものなんです。ここが人間形成には宗教がなければ駄目だと言う理由なんです。私たちの心は限りなく広くて深く、暖かいものです。まさしく不可思議にして実に妙法なのです。人間の尊厳とはこれあるが故なんです。只、我見の雲に覆われて光が遮られているだけなんです。それを取って無限の世界に導くのが宗教の目的です。坐禅はそこへの単刀直入の法であり、一超直入如来地の端的なのです。
ですから先ず拡散を収め、一つ事になり切って我を忘れ切ればよいのです。徹底素直になると言うことに尽きるのです。そうでありたいと智恵に頼んでもどうにもならないところに、心の深さがあるのです。そうならせてくれないのが知性の拡散であり、その元が我見なのです。我見を陶冶するための坐禅ですから、拡散には絶対に負けて退いてはならんのです。まさしく自己そのものの戦いです。一皮剥けますというと、今の一点が分り、そこは雑念も拡散も自我も無いすっきりとした、実に単調で楽な世界です。急に拡散が収まり雑念に振り回されなくなりますので、戦う必要が無くそのための苦しみは一編に無くなってしまいます。ようやく本当の修行が出来るようになってきた訳です。死物狂いの三・四日の後の話です。
それまではムチャクチャで修行にもなにもなってない訳です。そこでようやく着眼が定まってきて、それを離さずに守っておりさえしたら、心がだんだん、だんだん楽になっていって、不思議なことにありのままが見えてくるんですね。私達は知らずして見聞覚知を自由自在にしてますけれども、実際には過去の意識が隔てをなしていますので、真実は見えてないんです。内面に於いては常に囚われた状態にあるのです。すっきりとした事実が見えた時の感激というものは、参禅した方でないとどうしても分らないのです。この会の主催者であります矢崎道然居士ももちろんなさってますが、その時に初めてこの参禅の命というか、大事な究極をつかむことが出来るという確信が得られ、修行としての生活が可能となって来るのです。
修行の様子は人々の性格にもよる所がありまして、例えば書道のようなことを真剣にやっておりますというと、手がかりで苦しむことが余り無いようです。百人一首全部を巻き紙に書く場合、五〜六時間以上はかかるそうです。筆一本にずーっと集中して、外に拡散をさせてませんから、そういう方はいきなりぐんぐん楽になって行くばかりです。一息の中に没入することで一瞬の今、具体的な事実の今に成り切っていくのです。今の一息を離してはならんと指示しますと、スッとそれがやれる訳です。座長の清水先生が常々おっしゃってる、「私は坐禅はしないけれども、実験の中で我を忘れ命懸けでやって来たんだ」と。このように日常の生き様の中に在って、今を大切にし本当に真面目に、本当に素直にやっておる人は瞬間の切れがよく、禅そのものなんです。しかしながら残念なことには正法を聞いて居ないがために、それが総ての中心であり大事な着眼点だということが分らないのです。ですから、それで向上するという確信と目標がないので、同じ時間を経過しましてもそれ以上にはなれないのです。実に残念なことです。
観念や概念と係わりが無い今の事実に突き当たりますと、理屈なしに「それがそうだ」という確信が生まれてくるんですね。そしてそれに気がついたら何事が起こるのかというと、何かが在る訳じゃない。それがそれだと言う確信があるから迷いがない、心が自然に折り合い安心感が備わるのです。そうすると腹の底から気力が湧いて来るんです。それが又自信力になって行くんですよ。心とは実に不思議な力を備えているのです。その事が分らずに、ああ思い、こう思いして苦しんでおる人を見ると気の毒になり、こうやりなさいよという慈悲が出てくるのです。つまり、自我からの開放はそのまま慈悲にも感謝にも大きな愛にもなるのです。
こういうふうに、私達の心が本来の大乗に生まれない限りは、この地球は良くならないのです。大乗に目覚める為には、自分の心の元を見極める事です。煩悩の根本である自我を陶冶するということなんです。それを学ぶには専門の修行道場である叢林に行って頂かねばなりません。勿論、一大事を命を懸けて修得された正師でなければイミテーションを掴まされ、迷わされ続けてしまいます。正師に出会う事が出来ましたら、大事な要点を間違いなく聞き取る事です。大事な要点とは、即実行するためのたった一つでよい具体的な方法です。つまり着眼のことです。どんなにやる気があっても、着眼がほんの少しでもずれていたら心を解明する事など絶対に出来ません。だから体得していない師に就いてしまったら一生を棒に振ってしまうことになります。
私共実践家が悲しい思いをするのは、宗門の大学において先生方が、「悟りとは昔のことであり、解脱とはもう祖師方のことであって、今日では出来ない」というようなことを軽々しく平気で学生達に言うて仕舞うものですから、だから禅の世界をただの学問として、思想として捉てしまう。これから宗門を担って立とうとする大切な志の芽を、愚かにも学問の場、説明の段階で殺しているのです。それでは本当の仏法は絶えてしまうことになり、大変困る訳ですね。そこでそういう学者の先生方が、早くもう一歩向上飛躍していただいて、「ここでは文字に拘った説明をするに過ぎない。仏道は体得底のものであるから、本当の世界は叢林に入って実践し修得してもらいたい」と学の分野と行の世界とをはっきり区別して語って欲しいのです。実践修行に余地を残した示唆をして欲しい訳です。考証など密にした研究書など沢山の本を書いて頂くのは、敷衍性という上には必要なことで有難いことなんですけれども、言い切る最後は、「とにかく叢林に入り正師について修行し、不立文字の一大事因縁を体得する以外に仏法はない」と結論づけてもらわねば困るのです。学者の責任というのは、そこらあたりにもあるんじゃないかなと思っているんですけども。
時間も参りました。祖師のお言葉を借りて結びとさせていただきたいんです。「恁麼の事を得んと欲せば、急に恁麼の事を務めよ。既に恁麼事、更になにをか憂えんや」と。要約しますというと、「一大事因縁を究め解脱の消息を得ようとするならば、四の五の思わず今直ちに縁に成り切って我を忘れてやれよ。いつも真理の真只中におるんだから、さらに真理の外に真理を求める求心を捨てて見よ。それがそれだという言外の消息である一大事因縁に気が付き大歓喜が起こるであろう。既に一大事因縁そのものなんだから、更に何をか求めんとして憂えることがあろうぞ。只、真箇徹すればいいんだ」と。
これが禅の入り口であり、禅の途中もそうであり、禅の極致がまたそうなんです。という言葉で結ばせて下さい。有難うございました。


                     一九八九・十一・三  国立京都国際会議場にて






                 井上希道講演録
                 心の時代に向けて

                   平成三年九月十六日 印刷発行
                   著 者  井上希道
                   発行所  少林窟道場