ケンブリッジ会議 (1996・11・13)

輝かしき人類のために

井上希道


   序

 人間は誰でも不安なく、常に安らかにありたいと願っているし、人間としての誇りと揺るぎない自信を持って生きたいと思っている。又、自分を徹底信じたいし、決心したことはどこまでも貫ける自分でありたいと願っている。ところが、人間の特性である精神が、様々に想像しイメージするために、しばしば自分の心に翻弄される。そのために極めて不安定となり、低次化しすぎると一般に見られる諸々の悪なる所業をなしてしまう。
 自分で考え、自分で判断し決断する。そして自分の意志で行動し、自分でその責任を取ることは、人間としての基本であって、信頼し合うための人格の基礎である。社会性の根幹である。子供に対しては、成績の事よりも大学の事よりも、人間としての基礎、即ち円満な人格を形成させたいと願う親でなければ、社会も本人も末は苦しむことになる。
 世界は今尚殺戮と核実験、武器製造などが続けられているのも、低次化した動物的原始精神のなせる業である。これを克服してこそ本当の人間と言えるのではないだろうか。知性の働きそれ自体には、善悪もなければ倫理観もない、ただの思考コンピューターである。だからその人の欲する事柄に従って作用するので、悪人の知性は悪をなすために作用することになる。知性は悪魔にも叡知にもなるもので、だから健全な精神基盤が形成されていなければならない。知性が叡知となる基本条件は、常に自分自身を深く見る心の目を持たなければならない。そして自分の邪な心や貧しい精神を恐れる人間性を豊に持っていなければならい。その力こそ、自分の考えているその事が、正しいかそうでないかを識別する唯一の光でありそれが叡知なのである。
 つまり総て自己の内側の問題でり、精神そのものが問題なのである。犬猫など他の生物は自意識もなければ一切の価値観などを持ち合せてはいない。従って自分が死ぬとか惨めだとかという精神作用がないために、ただ毎日縁に従って自由自在に暮らしていて、決して不服や不安など抱いてはいない。人間は豊な知性と豊な感性を持ち合せているが故に、それらに捉われて迷い苦しむのである。
 しかし我々は最後の厳粛な死を迎えるまで、人間らしい誇りと自信と安らぎを持たなければ、本当に意義ある人生ではないし、無常の儚い人生だからこそ、お互い信じ合い敬愛と感謝の世界にしなければならないのだ。問題は永遠に人間自身であり精神そのものである。つまり自分自身ということなのである。
 いったい精神とはどのような存在であり、どのようなプロセスを経て形成するのであろうか。
 また、邪悪な精神をどのようにすれば超越することが出来るのであろうか。。
 本当に救われるとは一体どのような世界を言うのであろうか。


  人間の素地 潜在意識と業

 私たちは突然に現れたものではない。我々のこの生命と種の形態はご先祖様より頂いたものだ。それは生命誕生から三十数億年に渉ってずっと進化し続け、その間、一度たりとも途絶えることなく伝えられてきた命なのである。今日存在している総ての生物がそうである。この生命の普遍的継続は遺伝子によって営まれ、一生が刻まれていく仕組になっている。何とも例えられない深遠な存在と同時に尊くもあり、生命とはかくも魔訶不思議な絶対的伝承力を具えた存在なのである。その生命進化の過程に於ける総ての情報が、我々一人々々、細胞の隅ずみに渉って潜在しているということの意義と不思議さを深く理解しなければならない。それらは遺伝子情報という言い方で知られている。その計り知れない情報を伝える物質は、特殊な構造をしたアミノ酸からなる蛋白質で、それらに情報として形成する元の物質は、デオキシリボ核酸即ちDNAだうである。
 遺伝子とは、その種の特徴と生命を司どる機能とその情報である。自然界は法則の塊であり、遺伝子の大博覧会だと思えばよい訳である。人間もまた紛れもなく自然界の存在であり、自然の法則の中に於いて健全な生命現象を営むことができる。ところが人間の特性として限りない自己実現要求があり、欲望を極限まで追求する生き物が人間だと言ってよい。だからそうした人間が自然界の法則というかポイントを手にした時、そこから自然が自然ではなくなり、科学と化し、技術化し、今日の如きは加工し商品にし尽くして、生活する所は殆ど人工環境と化するに至ってしまった。知性によって生みだされた科学・技術は、体内に於ける遺伝子とは異なり、それ自体にコントロールのための情報も機能も持ってはいない。人間は、謂わば法則性のない興味や欲望と、無限大の要求エネルギーを秘めた存在であり、また法則性のない自然増殖機能を内在している恐ろしい存在だともいうことができる。ただこの体だけは因縁の寄せ集めであるから、縁が尽きれば元の自然に帰さなければならない掟になっている。地球に存在する文化・文明と諸悪は、総て内在する種を中心とした生命現象から形成されたものである。良くも悪くも、理想や欲望に駆られていろいろな事を発想する、それら法則性のない自然増殖作用が我々の体内に存在する限り、自己管理が出来る余程確かな人格形成・自律を育まなければならない。何故なら、人間のそれらの特性によって自己消化的に我々が滅んでしまうからだ。社会の健全性とその持続を願うとしたら、人間としての自己管理能力、即ち自律であり人格形成であり、これこそ人間としての基本的絶対条件ではなかろうか。教育とはこれを基礎として始めなければ、知性と理想の使い方を誤ってしまう。個としても全体としても。
 何となれば、我々の内なる存在には、極めて優れた知性と同時に、上述に加えて生命進化の歴史上経験的に出来上がり備わった動物特有の自己絶対・他否定の精神要素があるからだ。つまり、自分だけでも生き残るという生存本能が、極めて凶悪化し獰猛化し、且つそれらを正当化する知性をも発達させ核兵器に至ったのである。思えば殺戮が今なお頻繁に行われ、しかもそれらをどうすることもできない全人類的規模の現実があるではないか。そうした行為の根元は、その様にし向ける精神構造があるからではあるが、その様な基本的要素が本もと遺伝子に存在しているから構造化するのである。勿論それらを否定し越える大切な要素も潜在能力として携えているところに、人間の尊さと尊厳があるのである。


  業の根源は遺伝子にある

 遺伝子の最大作用は生命の存続と再生であり、種の特性と個の性質を特定付ける、謂わば生命のドラマであり台本である。種として存続しなければならない生への執着、それが生命力である。遺伝子自体が不滅を基本としているからである。だから身が滅ぶ前に若返りを計り、新しい命と共に再生され生まれ替る。断絶をつなぐ微妙な世代間結合には、その度に壮大な生命進化のドラマが展開されることになる。つまり、元の元の全く単調極まる性子と卵子の単細胞へと20数億年以前に先祖返りする事から始まるからだ。そして生命進化の全行程を超最短距離で再現し、10月10日で人間誕生となる。その世代移管の度に、進化の歴史的過程で体験してきた総ての情報が装填される。これが種としての形態とその特性を間違いなく継承保有する事ができた理由である。
 もう1つのドラマは、命の世代間結合のメカニズムである。結合は性行為によってであるが、その基は性欲によって性衝動を促すことから起こる。これによって遺伝子と命が継承されていくので、性欲を絶対悪とすることは絶滅を意味している。性衝動が無ければ、教養や自尊心や羞恥心などの自律心を越えて、あのむき出しの動物行為になれるものではない。本能という衝動機能は種の継続、命の維持を底辺で促していく強烈なものであり、存在たらしめる生命現象である。今日の生物郡はこうした不滅の遺伝子によってこの世に出現した存在なのだ。これが遺伝子の不滅性と若返りを達成するメカニズムである。しかし生命維持回路と原始精神である衝動機能に支えられた生命のドラマは、知性や倫理観や意志などよりも強烈であることから、人生を破滅させるような筋書きさえある。それも屡々ある。
 又、生命維持の基本は他の生命体に依存し、進化の歴史的時間は生命の多様化を促した。それだけ生活環境が多彩になり、更に複雑な生存機能が発達したのである。我々に潜在しているこれらの多様且つ複雑な対応能力は、精神の奥底に無限の情報と機能を持ち、その質と働きの無限性をも意味している。極限状況に於ては、人間もまた他を否定してでも生きようとする一般動物と同じ生命現象を備えていることから、忍耐力以上に怒りや憎しみや苦しみや恨みなどを刺激し喚起すると、防御と敵対心が最大に稼働して、大変危険で異常な精神構造に変心する。また警戒心・妬み・恐怖・攻撃・疑心暗鬼・嫉妬・不安・悲しみ・恋慕などの感情が度が過ぎても異常をきたす。何故かというと、これらの過度の感情はその物自体がエネルギーを持っており、生命力そのものを直接動かすからだ。だから教養があっても本能むき出しとなり原始精神となって道を誤ってしまうのである。
 とにかく結果として野蛮化し野獣化するので、人間的常識的な相互認識等の思考や判断回路が一旦断絶した状態になるということである。即ち我々は、肉体によって生命現象を営む生物の次元にいる限り、霊性的存在から極端な獰猛な野獣的精神の幅をもった、大変危険をはらんだ不安定存在なのである。だから恐ろしい事にもなると言うことを知らなければならない。時として親子・兄弟・友人等を殺害するという事件が無くならないのも道理であろう。


    愛と殺戮も原始精神から

 我々の生命維持本能は逞しい子育てをもたらせ、愛情という感情作用を培い、情念にまで発達させた。危険に晒されると、情念は外敵に対して天敵本能を駆り立てる。従って原始精神のままの愛とは、裏側に独占性・攻撃性・破壊性・殺意とかの天敵本能を携たものであることが解る。天敵本能が作動し始めると、精神性は忽ち狭隘化し両極思考しかできなくなる。敵か味方か、損か得か、殺すか殺されるか、やられる前にやってしまう、といった対立思考・争奪意識となる。そのエネルギーの破壊力は、後天的に獲得した知識や考え方や教養の様な観念操作などでは到底統御出来るものではない。まさに生命力そのものだからである。疑心暗鬼の仮想に脅かされ、即天敵視してしまう輩は、遺伝子にしくまれた自己保存の原始的対応から成長していないということなのである。その結果、知性と技術の限りを尽くし、同族を守る自己絶対・他否定の原始精神が核兵器をも作り、今なお殺戮しているのである。
 紛争の元はイデオロギーや民族や経済の様に見えるが、それは動機や現象面であって、根源は遺伝子に潜在している天敵本能が簡単に表面化し、精神構造の原始化が起こり野獣化することから起こるのである。その結果、豊な知性や教養や過去の教訓は、簡単に敵意とすり替わるから殺し合うことが出来るのだ。人間が人間としての自覚と魂を失った時、大自然から見ると、人間はただ凶悪獰猛の愚かな動物なのではなかろうか。

 なお又、こうして、人間は自らが様々に起こす負の精神作用に翻弄されて苦しみ傷つけあう存在でもある事を恐れ、悲しみ、遂に懺悔という人間固有の高い精神作用をも築き上げたのだ。これこそ究極的平安を願う生物の行き着くところを意味しているのではなかろうか。自己を深く知ることから、人間の持つ怖い獰猛性・野獣性を恐れ、そして悲しみ、惨悔して、それらから脱却したいという救いへの願いが光となって、そこから宗教や哲学や芸術が生まれてきたのである。
 原始精神は、自己反省という大変高次化し発達した精神作用の光に当たることによって、謂わばそれらを生みだす要素とエネルギーにもなったのである。我々の精神は惨悔をベースにして高い理想と信念をもった場合、その精神の作用するところは自然に祈りへと発展するようになっているようである。だから懺悔と祈りと修行は、動物的個人的存在から霊性叡知の大乗精神へと高次化することができる心の光であり、人間だけの世界であろう。我々はこうして絶対存在にまで高まる超自己精神性を有した存在であるところに着目しなければならない。

 我々人類の最大の課題は、根深く潜在している動物的原始精神を如何に克服するか、ということである。自己管理の根元は何なのか。
 如何にすればその根元を掌握することができるのか。
 人間の本質的解明から始まり、精神構造が構築されていく因果関係を解明して、それを元に個の人間的課題を追求し極めなければならない。これは国家、否、人類的課題であり、本当の平和も地球の健全化も人類滅亡からの転換も、ここを原点として実行すれば可能なのである。
従って、表面近くに存在している情報や要素は、環境刺激に対して極めて反応が早いが、逆により深くに潜むものほど形に現れにくいと言うことになり、これらが光と陰の人間模様を形成している要素の一つなのである。
 教育は確かに与えるものも沢山あるが、知育は整った受け皿があって初めて有効且つ発展的に作用する。受け皿とは動物としての機能であり体の健全な成長のことである。つまり健全な成長には必ず健全な感性と知性が育まれていくということである。その上で潜在している必要な精神要素を刺激して、健全に表面に引出して来れるのである。精神をより高く美しく発展成長させるための素地として、身体機能の発達が根源であるから、家庭を中心に人間性豊な生活と共に、仲間と遊び回る自然と、その時間がなければ健全な身心の成長はあり得ないということである。

 

  環境と精神要素

 檻の中で飼われている猿には、子育ての出来ないものがいる。生みっぱなしである。これは一体どうしたことか。それは種として彼らに適性な環境ではないからだ。生命が誕生してよりずっと進化と生命の多様化が続いたのも、その時のその場所の持つ環境であった。それぞれの種は、他の生命体に依存し存続しているから、それぞれの環境変化は他の生物群に必然的に影響を及ぼし、総てに変革を促し続けることになる。動物のみならず総ての生物は、環境の変化に適応することが存続には必要条件だったのである。つまり進化は、大自然の変遷上、当然の流れとして追随的に必要となり、それが適応能力となり種の継続を得ていたというわけである。従ってその種が存続しているということは、その環境が持つあらゆる諸条件に適応したと同時に、それがそのまま他を変化させる環境でもあったわけである。つまり種の存続には、環境の持つ刺激も重要な要素なのである。
 生きた化石といわれているシーラカンスが進化しなかったのは、逆に変化や多様化が必要なほどの環境の変化がなく、進化も退化も必要ない極めてバランスのとれた状態だったからだ。ほんの少し産卵数が多かっただけでも、食物の環境はやがて大きく変化したであろうし、それに対応せざるを得なかった筈だから、相互作用して生き方も形状も共に変化し多様化が起こっていたに違いない。進化するにも退化するにも動機があり、しなければしないだけの理由があるという事なのである。

 動物園の檻の中が自然環境と根本的に異なる点は、潜在している大切な因子が完全な状態で刺激啓発されないことにある。種として最も大切な、次世代を育成するための、潜在能力が顕現するに必要な刺激が充分にないということだ。それ故に未発達のまま親になってしまった訳だ。また、大量に輸入されている生鮮食品の中に、生きたナマズが空輸されている。当初いかに酸素を補給しても可成りの数が死ぬために苦慮したらしい。ところが、その中に天敵のピラニアを2、3匹入れておくと、殆どが元気に生きているというのである。環境として何が足りないのか。つまりそれは、種を脅かす天敵である。天敵に対する警戒心という緊張が刺激となって必死で生きようとし、子供を守ろうとする注意力と愛情が健全に稼働して初めて育つのである。瞬間的に命がけで生きる環境こそ、潜在している必要な要素が啓発され、子育て情報も躍動するという自然の関係がある。
 ところが天敵も居ないし、餌も適当に与えられれば、天然の生き物として発刺と躍動しないものも居て当然である。親としての自覚がないから、本能としての子どもに対する存在観が湧いてこないのだ。従って愛情も警戒心も湧かず、だからほったらかしが出来る。子供のままで親になっていない人間もまた増加しているのも、全く同じ理由からである。これは生命現象を営む機能が健全に作動していないことを意味している。子育ては極めて自然な働きであり本能的なもので、生き物がもつ生命現象の中で最も激しく強烈な機能である。でなければ種が滅ぶし、これが破壊されれば絶滅するしかないからだ。

 ここで学ばなければならないことは、こちらの都合で人工的に変化させたものも含めて、環境が変化するとなし崩しに生物全体が変化するという事であり、こちらも変えられていくという事である。また、健全な自然環境を失った分だけ、それだけ必要な刺激を失い、結果として大切な人間としての要素が不全となり、大変不気味な人間がこれから出没することになっているのだ。


  教育の本質に向かって

 教育の基本目的は、自分で考え、自分で判断し決断し、そして自分の意志で行動し、自分でその責任を取ることが出来る人間に自律させることである。
 20世紀後半になって凄まじい経済発展を遂げた。不便を便にすること、つまり利便性と合理性に至上価値を求めた感がする。その結果は瞬く間に自然環境を破壊し、子供達が通学するにも命がけという生活事情にしてしまった。単に環境だけではない。それまで父祖より伝承してきた生活の文化と、人生し共存していくための大切なノウハウは、自己主張と機能性重視の文明によってあっと言う間に無意義と化してしまった。それは利便性と合理性からくる経済価値観が全体の価値基準となったために人間性が低下したためであり、心が育たなくなり伝わらなくなってしまったからだ。親子兄弟のみならず、家庭の様子から、隣人同士を始め、社会全般の倫理観や秩序や人間関係まで、たった三世代の間に崩壊したのである。この現実が一体何を示唆しているのかよく理解しなければならない。

 とにかく健全な精神となるには、基本的な精神要素が必要である。その集合体が社会であり国家であり世界である。その上で平和がなりたつのである。健全な精神・健全な人格であるための絶対条件とは、95ある精神要素を、順序よく円満に刺激し導き出すということである。とにかく生命母体が自然であり、生命現象も自然であり、知性や感性も自然であり、その発達もまた自然であるということは、健全な自然と健全な家庭が無ければ健全な精神要素を導き出せ得ないと言うことである。文明の進んだ今日の人工環境では、従って健全な精神構造には成り得ないがために、我々が是とする人間性と人格は育たないと言うことなのである。先進諸国のもつ運命は、世代と共に精神退廃現象が進み、麻薬・エイズ・凶悪犯罪・欺瞞と横暴等が蔓延して、それを国家が管理し得なくなったとき、大混乱となり、地球規模へと拡大し滅亡の幕引きへと突入していくのである。
 それを如何にすれば食い止めることが出来るか。今、我々はこのことを真剣に考えて行動しなければならないのではなかろうか。そのためには、まずは次世代を健全に育てることをしなければならない。


  精神と言葉

 生まれてすぐに人間社会以外の中で育つと、心と言葉と文明が無いために、創造性や思考力といった文化性を持つことが出来ない。これは知性にとって決定的ダメージである。言葉がなければ概念を形成する道具が無いので、抽象的な世界は拡大も成長も蓄積も無い。従ってちゃんとした人間に成長するための知性や感性は、人間によって刺激されるしかない。それが育つと言うことである。又ちゃんとした目的と手法をもって育てることを教育と言うのである。そうした環境がなければ思考力や思想回路や情操が発達し得ないということであり、想像力も育たず理想もえがくことはできない。つまり科学性・文化性が存在し得ないということである。ために、単に知性の高い類人猿的存在でしか成り得ない。とにかく人間として成長するには、人間の心と言語をもって生活しなければならないということである。

 人間の最大の徳性は確かに精神性であり、知性である。精神性とはそれに加えて人間固有の総ての感情も含めて言う。知性は情報とその情報を活用して新たな概念を構築する判断機能が主な仕事である。早く正確に、かつ高度で人間性に富んだものでなければならない。知性の肝心な要素は記憶力もさることながら、集約力と応用力と言うことが出来る。つまり、物事の中心を成している普遍的な原則を見抜き、それ等を一定の法則で纏める力がまず第一である。この知的作業を「理解する」というのである。次には獲得したそれらの法則をより多くの事象に「応用する」ことである。この二つの要素が知性の根幹であり、この二つの要素が不完全であれば、獲得した情報も不完全となる。従って科学性も社会性も文化面にも問題が出てくる。つまり極めて日常的で基本的な判断すら曖昧となり、その事が本人に自覚できない幼稚さが残る。だからしっかり勉強する必要があるということになる。
 問題はここからである。大抵の有識者にして人間の理解はここ止まりが現状なのだ。だから知性さえ磨き込めば人間としての完成度が高まり、人格が向上すると思いこんでいるのである。多くの情報と、シャープな思考、そして決定的な判断がだされたとしても、それが単なる観念現象に過ぎないということが全く分かっていないところに決定的間違いがある。
 観念的に理解しただけでは、風呂も沸すことが出来ないし料理一つ満足に作ることは出来ない。後片付けなどはまるで出鱈目だし、掃除だって小学生並みのことしか出来ない大人になってしまうという、二人の若い高校教師の呆れた現象を見せてもらった体験談である。これらは一体どうゆう現象かと言うと、言葉の持つ意味合いを具体的に現象的に理解するための基礎経験が不十分だからである。つまり、実行するための手立てを立てる固有の基礎回路が必要なのだが、現在の環境ではそれがまるで育て得ないために、理屈は分かっているのに具体的にどうすればいいのかが分からないのだ。人間の機能がどのように構築されていくか、ここを理解することが出来なければ、教育の本質的な問題解決はあり得ないことになる。
 主に視感覚の対象となっている現実の現象世界との関わりが生活であるから、それらと健全に関わっていく身体機能の活用作業が主体でなければならない。視感覚の対象世界も我々の身体も現実の作用であり機能である。観念現象の世界とは全く関係がない世界である、と言うこの理解が重要なのだ。
 だから如何に知識が豊であっても頭脳明晰であっても、自分のことすら満足に出来ない片輪者が沢山居る。結局は抽象観念の世界と、現実具体的行動たらしめる運動系との世界とを繋ぐ要素というか回路が発達していないからである。即ち、知性を現実に対応させるための要素がそれである。これが「知力」なのだ。「知力」が不十分であれば、人間としての自分の行為全般を知性で管理することはとても出来るものではない。何となれば、知性にはそのような機能や力など少しも無いからである。勿論知力さえよければ事足りるかと言えばとんでもない。良質の知性と感性が充分になければ発展的創造はあり得ない。問題は知性一辺倒の危険を知らなければならないと言うことなのだ。己の能力を知るとか、自分の限界を知るというのは、だからこの「知性と知力と感性」のことであり、そのバランスの限界のことである。端的に言えば、心と体と環境とが充分に一体化し繋がっていなければ健全な状態ではないと言うことである。内面から言えば、精神構造の中に、生きた具体的現実の世界をイメージしコントロールする能力が育まれ宿っていなければならない。それは「知性と知力と感性」に加えて「希望と反省力」であり「向上心」である。これらがしっかり育ち解け合った状態を言うのである。ここから滲み出てくるものが本当の自尊心や自信や信念である。つまり、実際に健全な状態で環境へ適応して生活するためには、必要な基礎回路と情報がなければ、する事、為すことが的外れになるということだ。これらは総て成長期に必要な環境がなければ、芽吹く段階で大切なものが取り残されて知力に成りにくいと言う代物である。遺伝子には成長のための固定化し一本化したメカニズムがあり時節があるということだ。聞き分け、見習い、教えられ、考えて、真似て、経験し、体得し、感動し、反省したものを発展させ、新たに概念化し法則化して知性と感性と知力を育て、それらの要素を強く健全に同化させ一連化させて精神を構築していくのである。とりわけ自然の中で子供達自身が発刺として遊ぶことが大切なのだ。とにかく95の精神要素を健全に大切に育むためには、良き家庭・良き兄弟・良きとも・よき環境のもとで伸び伸びとした生活をすることである。若しそれが無ければ、それらから整えていくのが順序であろう。孟子3遷の話を、親としてどれだけ真剣に理解し受け止めるかである。子供が一旦ねじれてしまったら、手抜きした報いは百倍になって必ず親に降りかかってくる。その時になって悔やんでも間に合わないのが教育なのである。


  自意識の芽生えと環境とその因果関係

 赤子は一切の分別も意識も無く混沌の世界にいながら、声と雰囲気で母親を識別し、泣くというたった一つの表現で一切の要求を知らせる。食欲にしろ不快感にしろ小さな命に直結している要求であるだけに即応する必要がある。母親はそれを空腹か大小便か身体的苦痛(暑さ寒さ・痛い・かゆい・窮屈)か素早く見分けて対応する。まさに知性以前の本来の力であり感覚であり、天然の能力のすばらしさである。これが尊いのだ。これらの要求にはまったなしに対応する必要がある。しなければそれだけ不自然な環境を無理往生に許容させることになり、赤ちゃんにとっては拷問であるからだ。心地よくて泣くはずはない。
 この時期の良好な環境とは、一切の不自然な刺激のない事を言うのである。全く安心しきって、静かに次の段階の自然な到来を迎えるようにすることがポイントである。もともと赤ちゃんには自意識は愚か、無用な策略など一切無い。従って天然の要求にはそれだけ切実な事態があるということである。例えば、お乳一つの関を見てみると良い。お腹かがすいたから訴えるのであって、そろそろ訴えておこう、などという計りごとはない。誤って、教育は早方がよい、などと今はやりの発想から我慢強い子にさせるためにとばかり、どんなに泣き叫んでいても時間が来るまで与えなかったとする。要求緊張は時間と共に高くなっていき、それだけ自然ではなくなる。それから与えると堰を切ったように大急ぎで飲み、多量の空気も取り込む。要求緊張が異常に高まっているから、満腹になっても要求緊張は衝動的に飲むという行為を続けさせる。
 ここで学ぶべきことは、即与えるならば、空腹が解消すれば自然に要求緊張も解消する。従って飲むという行為は最も健全で自然な量を取り込んで終わる。何らの不自然さはない。かたや極限までお腹をすかせた状態で与えると、飲み方においても動物的となり、お腹いっぱいに飲んでも、なお強い要求緊張が残る。なお衝動的に飲むという行為が続くことになる。その結果、飲み過ぎの苦痛や不快感と、多量の空気をげっぷとして吐き出す時に、乳も吐き出すという不快感にさらされる。空腹と飲み過ぎと、そして乳を吐き出す気持ちの悪さとで三重の苦痛に身を置くことになる。
 又速い速度でさっと抱き上げたり降ろしたり、大声で近づいたり激しい振動を与えたりすると、それらは総てそのまま恐怖となり怯えとなって身構える。動物としての危険に対する自然な反応である。こうした環境で育つと、生きるための野性的原始的な精神要素が刺激されて、早くから警戒心及びそれらによって派生する心、特に信頼を阻害し尊貴性や人格的な要素がぐんと押さえられてしまい、それがそのまま精神構造に組み込まれ固定化していくことになる。空腹で泣き叫ぶなどとは生き物として最も惨めであり哀れで、与えられたときには、この際に飲んでおかなければ何時ありつけるか分からない、と言う心理を培ってしまう。長じて卑しさや貧しさや貪り、ひがみとか妬みなどの元になるものである。毎度こんな事が続けられたとしたら、せっかく何の汚れなしに生まれたとしても、この不自然な環境ではたちまち原始的動物的な荒々しい精神要素が刺激され、人を無条件に信ずるとはまる反対の乱れを起こし易い構造となる。問題は安定を最も必要としている時に、この様な不自然さが精神の成長と確立にどのような因果関係にあるかをよく知っておかなければならないということである。

 躾とか鍛えるとかの後天的に培うものは総てその基礎因子、基礎体力が整って初めて可能な状態となる。主体の状態を無視して結果を先に立て、それを押しつけるととんでもない事になってしまう。精神構造が良質に形成されるためには、どこまでも健全な環境が必要だという事である。健全な環境とは、赤ちゃんには赤ちゃんの適正な環境ということで、単に環境という1枚ものを指しているのではない。お風呂1つにしても、部屋の温度・脱がせたり着せたりする速度・入れる時のお湯の温度・適正な入浴時間・出す時の温度など、赤ちゃんにとって決して不自然であってはならないし警戒感を与えない環境のことである。それが心地よければよい程、初期精神は伸び伸びと、安心し信頼しきって成長する。他の要素の芽吹きも自然であり、安定した成長が出来、これらの逆をやれば逆の結果があるという事である。

 では、何時から躾などをすればよいか。それは自尊心が芽生えだした時からである。ではどうしてその時が分かるのか、と言う疑問が残る筈である。とにかくよく観察することである。或る現象を本質的に理解していくと、自然に子供の内容が判明してくる。歩き始めた子供はよく転ぶ。当然である。或る人は自分で立たせなさい、と言う。直ぐに抱き起こして怪我の有無を確かめるべきかで、どちらが子供にとって適切な対応なのか迷うだろう。
 よく観察すると、体力的精神的に充分なエネルギーがあるときは、転んだことにそれほどショックはない。しかし、寂しかったりお腹かがすいていたり、或るいわ怖かったり悲しかったり、又体力が充分でなかったりしたその時の心的・肉体的状況によって、転んだショックが失敗感となり、悔しさや悲しさを一瞬にして何倍にも増幅しそのまま心を暗くしてしまう。こんな時は躊躇無く抱き上げて、「いつもは上手に歩くから転んだりしないのにね。大丈夫よ。ちょっと失敗しただけだから。00ちゃんは何時も注意しているもんね」と言ったようなことを話しかけて「強い子はね、転んでも泣かずにすぐに立ち上がるんだよ。転んだら痛いけれど、それを我慢する子が強いんだぞ」などと言って次の気持ちをリードしておくと、転んでもすっくと立つようになる。又、エネルギーが一杯の時は心も弾んでいて転んでも楽しいし、起きあがりながらもう次のことに気持ちが行っている。こんな時に手を貸すと親の手を振り払う。自分がしたいように行動してみたいからだ。自尊心とはこうして自立心と同時に芽吹く。この時から自立心を啓発する語りかけで、人間としての規範とマナーの躾をするのが自然なのである。そしてもっとも良く吸収していく。「食事を頂くときはね、こうしてちゃんと姿勢を正しくして、正しくお箸やスプーンを持っていただくのですよ。赤ちゃんは出来ないけれどね。正しくできると格好がいいでしょう。何でも正しいことは美しいのよ」。こうして1つ1つ形のマナーと心得のマナーとを、自立性・自発性の芽生えに従って教えることが大切なのだ。これが自然である。転倒という事柄一つの中にも、抱き上げてやらねばならない場合と、言葉の激励だけで良い場合とがあり、心の背景やエネルギーの状態によって親の関わり方も適正性から言えば当然変わらねばならない。ところが自立性が始まっても、親が何から何まで干渉し与えてしまうと、折角のびはじめた積極性・自発性は依存性要素とすり替わるので気を付けなければならないし、親に心を向けてしきりに質問してくる自発性が最前線に出ているのを無視しても、伸びられず別の興味の方向へと流れてしまう。その子の自然な発達がベースであり、自発的に吸収しようとする心の姿勢が最も大切なのである。
 子供が何を要求しているのか。何を拒絶しているのか。何に興味を持っているのか。何にどのような反応するか。それがどういう意味なのか。
 こうした本質的内容の把握力が親に育まれていなければならない。原則として躾とは決して調教的に或る形を固定化るものではない。その子が健全な精神を形成し、品性や徳性が豊かに成長するための素養を育てるのが躾の基本目的であるからだ。個にとっても周りにとっても、すがすがしくて美しい振る舞い、知性的でけじめのある生き様は存在として価値が高いし幸せに違いないから。
 又、幼児は興味を引かれた物に対して「不思議だな」という素朴で単純な感情や疑問が起こる。知性の大切な芽生えである。それが限りなく「あれは何か?」「どうしてなのか?」「何故なのか?」という単純質問へと成長し知的行為されるようになる。自然発生的に抱いたこれらの単純な感情と疑問を言葉で表現した姿である。つまり、聞いた言葉の概念を集約するという、所謂思考判断の回路と、言葉の拡大による概念の吸収蓄積とが激しく機能する時機が到来する。知性の発達にはどうしても必要なのである。言葉の存在によって初めて抽象化する事が可能だからだ。見聞覚知の塊りである体と精神とは一体未分化の状態、即ち霊長類の経験的行動・直接的行為と殆ど類似している世界から、不思議さや疑問を言葉に置き換える回路を持ち概念を持ち始めて人間へと成長していく。そして言葉で分り合うという知的共有の文化が形成されていくのである。それが理解であり、「分かった」という知的快感というか満足を味あうようになる。するとますます「分かることと、分からないことが分かる」ようになり、それが知的要求を更に刺激する。だから「分からないことに対する分かりたい要求」となり、それが質問責めの時代なのである。この時、親から離してはならないというのは、折角こうした激しい知的自発性が育とうとしているのを妨害してしまうからだ。最も信頼し一体感で安心し切っている母親が居ればこそ、本来の自然な知的自発が自然に促進する。どんどん話してやり答えてやることである。
「そう、それが分ったの! 良かったね!」と言う相づちから始まり、物の道理や人間性、マナーの急所やその大切さなどをも語ることで、自然の内に自律心の基礎が培われる。心が親に向けられて居る時が最も吸収され伝わりやすい。また親のすることなすことが極めて魅力的に見え、親のしていることは何でも真似してみたくなる時期がある。これが遊びと学びの時代で、潜在している多くの要素を刺激し発露させる最も基礎となるものであるから、要求に応じて安全を第一にして、道具の使い方と目的を正しく教えてやり、させてやることである。
 この自発性が起こってきた時こそ、親とべったり暮らすことが重要なのだ。この時期にちゃんとした家庭で過ごし、充分に遊び、充分に悪戯して育った子供は、身の回りの出来事や環境の認識力・把握力が断然新鮮で確かである。何時でも何事にでも適格に関わり合える対応能力が成長するからだ。それらが生涯にわたって新たな経験をする上で断然役立つのである。謂わば精神構造としては、生き生きとした両親や友達や自然が存在するから、決して孤独感による耐えられないと言った軟弱さが無いのだ。何故かというと、辛いとき、寂しいとき、悔しいとき、嬉しいとき、迷ったときなど、心に一杯宿っているそうした人たちに励まされ語り合うからである。心の親や友達が支えてくれるからである。従って家庭生活全般から、身の回りの管理や新たな環境への対応などに躊躇したり混迷したりしないし、ストレスになる以前に手際よく対応し、楽しむ余裕すら持てる奥の深い精神性へと成長するのである。

 とにかく疑問は知性の発達成長に欠かせない基礎的要素である。感性の発達と共に内面に於いて疑問という刺激が一層成長を早め、構造化体系化しつつ次の精神要素を導き出すシステムになっている。だから体験的に刺激し反応してこそ、健全な成長が得られるので、健全な生活が基礎教育なのである。このような環境にあれば、どの子もだいたい同じ様な要素が発露してくる。それはその時に発達しようとしている精神要素と肉体との最もバランスの取れた確かな環境であると言うことである。とにかく自然の中で仲間と遊びながら、お互が刺激し合い、競い合い、学び合ってこそ知性も感性も社会性も整い、健全な精神構造が確立される。これが基本となって人格が形成され、自律性と共に徳性へと高まることになるが、これらが不全であれば徳性にも欠けることになる。


  自意識とその精神構造

 自他の区別を明確にし始める時がくる。自意識の芽生えである。大げさに言えば存在の自覚である。それによって色々な要素が刺激され顔を出して来る。自分の物、と言う所有意識と独占性をはじめ、「欲っする」という要求の感情もそれからであり、欲しい物を自分の物として持ってきたりするのもそうである。また、母親のする事をたちどころに真似ていく時でもある。親と一体同次元のような混沌の状態にありながら、明らかに自分としての存在を意識し、また自分という存在を認めてもらいたい要求が起こってくる。その中には自己主張というか自主性の芽なのどがある。この時が自尊心と同時に義務感や責任感の基礎を育てる時でもある。が、自己主張と自主性とは或る部分に於いて合一性があり、「我がまま」の要素を育む時でもある。
 「我がまま」という精神構造は、自己主張が社会性を失い、周りとの健全な関係を越えた状態を言うのである。従って素直にすくすくと育てるという意味を、自己主張を自主性と思ってそれを主に伸ばすと、社会性の芽は畏縮して発達し難い。ここが難しいところである。何故伸びなくなるのか。それは自己主張が通れば、自分の要求通りに前へ進むからである。すると次には既に新たな要求が待ってるから、他の子供の存在を意識して判断する、という社会性のフィルター即ち要素が発達し難いという構造なのだ。反省をさせたら治ると思うかも知れないが、反省という精神性は相当高度なもので、その要素が現れていないときに反省をしなさいとか強要しても土台無理だと言うことが分かるはずである。だから色々な子供達で形成された子供社会が必要なのである。そうした自己主張の芽は子供全体に伸びる時だから、他人との協調無くしては仲間になれないルールが自然発生的に生まれてくる。何故そのようなルールが発生するのか。それは一人々々自分も同じ要求があるから、勝手な振る舞いは全体の様子から許されなくなると言うものである。人格不全となる自己主張は大勢の仲間との共存関係で食い止められ、一方では他人のそうした不合理な有り方を嫌な思いで否定的に受け取り、バランスの案配をわきまえるようになる。これが個の内面に育つ社会性である。自己主張を自主性と間違えると、我がままになり人格不全になる因果関係がこれである。

 自己主張というか自主性の芽を、義務や責任の基礎として育てるにはどうすればよいのであろうか。ここが分かれば子育てに間違いを起こすことはない。
 存在の自覚は急に多くの要素を刺激し、それらがまた相互間で二次的に作用しあって現れるので、余程親が成長していかなければ理解することは難しい。とにかく自分を意識し始めたと言うことは、主体性が現れ始めたと言うことであり、それは「私はここに居ますよ、忘れないで下さいよ」と訴えると同時に「ちゃんと見ていて下さいよ」との願いであり「認めて下さいよ」と言う基本的存在の要求が根本にある。その上で彼らの行動が展開されていることを忘れてはならない。いつでも、どんなことでも、そこから見守って居れば子供の心から外れる事はない。が、感情作用もかなりはっきりしているはずだし、苦痛と嬉しいこと、好きなことと嫌いなこととが明晰になりつつある時だし、抽象脳力も備わりつつあり空想が組み込まれてくるので、部分で見ていると一貫性に乏しいために分からなくなってしまう。それが幼児の様子である。見守っていて、自発のままに行動を起こし要求をしてくるその時に、適切な対応をすると言うことなのである。その時に、先ほどの心が基本なのだと言うことを忘れないことである。
 興味のあることをして単に嬉々として遊ぶことと、家族の一員として食事などの手伝いをしようするときとは内容が違う。喩え遊びの延長であったとしても、大切なのは自主性である。それを特に強調して接すると、それが刺激になって意識してするようになる。「お手伝いしてくれるの! 助かるわ! もう赤ちゃんではないものね!」と言う関係の持ち方から進めるのである。「はい、これをテーブルへ持っていってね。このように正しく持つと失敗をしないからね」と言って親がやって見せて、やらせてみて、正しく対応できるようにして、そして安全に確かにさせるということが教育なのである。食事の支度になると呼んで、「お母さんが助かるから、お手伝いしてね」とたのみ、同じ事をさせる。「ちゃんとできるかしら?」と言いつつ点検をする。出来たら誉めることであり、感謝してお手伝いをした意義を実感させるのである。そしてそれを自分の仕事にさせることである。そうして仕事域を次第に拡大し、遊びの範囲、つまり苦痛を伴わない範囲まで色々させて仕事の意義と面白さと大切さを実感させることが、責任と義務の基礎なのである。たちまち友達と外で遊ぶ楽しさを知り、ままごとのような手伝いなど見向きもしなくなるので、このことはその時にしか出来ない大切な教育なのである。
 どの要素にしても時節があり、その時を過ぎてしまうと後には戻らないので、「教育は暫し待て」が利かないと昔から言われているのだ。つまり人間固有の精神は、健全な家庭を定盤にして健全な自然と深く関わることによってしか発露させることが出来ないという原則を忘れてはならない。幼児や子供に取っての健全な環境とは、自然環境は勿論、健全な家庭とそして年齢が前後した子供社会、それに知性を磨く健全な教育環境を言うのである。自然の深遠な息吹きを毎日感得し、毎日感動し、親子と語らう。すると、漠とした精神は自然の深遠さを感じ始める。それは不思議という感覚刺激であり、知性と感性の分離していない世界から自然と魂が関わり始める。刺激に依って興味を起こし、感性が躍動し、行動が促されていく。その健全な全体的な反応が、知性の窓口を拡大し、精神を淀みなく成長させてくれるのだ。且つ知性の自発性もここから育っていくのである。

とにかく健全な生活とそれを包み込む豊な自然と子供社会が必要なのである。自然と言う場は子供達を闊達にさせ、体全体を躍動させ、精神をみずみずしくしてくれる唯一の自由な空間と時間をもたらせる重要な存在なのである。そこで自由に遊ぶことが発達過程に於いて極めて重要な生活なのである。それによってのみ大脳と体とが不離一体となって健全な精神が育まれるから、健全な知性となり人格へと成長する。謂わば、しっかりした人間性を育てるにはこの様に本来内在している無限の精神要素の中から、大切な要素を導きだすことである。そのために手立てとしての刺激と言うか健全な環境が必要不可欠だと言うことなのである。それが失われている現況に於いて、どの様にしたら代替足り得るか。これが今教育を考える大前提・大原則と言ってよい。しかし、既に遅いのである。


  母親の社会参加によって

 核家族化は女性の社会参加と同時に起こった。その背景は女性の意識が家庭から社会へ、家事や育児から社会的自由と経済力獲得へと向ったためであり、そこから急変貌し、今日がその結果である。裏返せば、個の存在を社会的に認めさせ、家庭と家族と育児とその責任の価値観を変えてしまった。これが一般に言うところの女性社会の進歩成長であろうか。経済力をもつことが束縛開放の必須条件とでもいうように金稼ぎに出るために、当然のように子供の預け場所が求められた。一方では幼稚園や保育園が福祉と言う価値観で進められたのは、子供を親から離して専門家に任せる方が、より高度な育児観なのだという一般意識を作ってしまったからだ。その背景もやはり金勘定からであり、高学歴、名門志向、有名企業への就職を最大願望とした価値意識と、家庭からの解放願望とからである。
 それは変容して行く世代の姿であり意識であって、一方の価値観だけで評することは出来ない。ただ、次世代の健全性を育むことが親の責任であり、明朗闊達な成長を無上の喜びとするならば、こうした母親不在の家庭環境・母親の個人性重視に流れて行くことは、子供にとってまことに不幸である。その証拠に、こうして育った子供は決して健全ではなく、家庭崩壊を来し、それからは親子ともに大変不幸な人生を迫られるからである。


  人類成長過程に原点を見る

 人間としての際立った変革の起こりは、200万年前頃より両足歩行から始まったとみてよい。即ち、両手が自由に機能をすることにより、餌を口にする間も絶えず周りの環境認識と安全確保ができるようになったからだ。頭部を安定させてしっかり周りを認識することは、情報の分析と蓄積を容易にしたであろうし、大脳の発達は頭部拡大と共に、手先が緻密に作動するにしたがって口に運ぶ物を食べやすくしたであろうから、急速に顎の縮小を来したであろう。それらはやがて概念を形成するほどの能力に達し精神作用をもたらせた。3、40万年前頃より言語を用い始め、意志の疎通は思考能力を飛躍させたに違いない。それからたかだか2、30万年の時間経過の間に、道具を考案し、その便利の良さは真似されていき、一般化するに連れて多数の知性が集約され演繹応用されたに違いない。道具の発明と伝承改良は、生活の様式を急変させていったはずである。凡そ3万年前頃の出来事である。それからの変革度は、人間の特性が知力に偏るに従って暴走的に発達した。その結果が今日の様子である。思うに、知性が生産的発展的な面に関与する要素としては、勿論概念の高度化が元ではあるが、集約力と応用力と想像力であろう。集約力は合理化を推進し単純な法則にまとめてしまい、応用力はそれらを形に形成して文明となし、想像力は理想や欲望やさらなる利便性・合理性や虚栄心や快楽や独善性・野心などを刺激し増幅し続けていく。
 今、赤ちゃんから大人までの成長を考えるに当たって、両足歩行から始まった人類進化の過程と極めて深い類似性が観られる。赤ちゃんから大人に達するにはほんに僅かな時間であるだけに、人間たらしめる精神要素の確立には最大の注意が必要なのである。1日の持つ重みを知るべきである。根本問題は環境が人工化し文明化して、自然が極めて生活から遊離し自然ではなくなってしまったことにある。加えて、社会が経済価値観で進められ、教育も金もうけに直接結びつけて考える親が増え、大量生産・大量販売・大量消費に役立つ技術屋を中心にした社会構造が出来てしまったからだ。生まれて成年に達するまでの20年間は、200万年の歴史的経過を果たすと同等の重大性があると言うことなのである。

 教育には個人の自律を根本として、全人類の願いや希望がその内に秘められている。従って育てる基本的意義は、個人のエゴ的希望は第二第三にしてとにかく心身を健全に育むと言う事を忘れたり間違ったりしてはいけない。その時、成長していく見通しとして役立つのが、200万年の間の経過であり、その流れの因果関係を深く推論してみることである。今、母親としての自覚と責任感の復活を願い、健全な家庭形成に叡知を駆使する必要に迫られているときなのである。


  知性から叡知へ

 人間は豊な知性と豊な感性を持ち合せているが故に、それらに捉われて迷い苦しんでいる。想像性は欲望を極限まで増幅させるし、それらは感情を刺激して怒ってみたり怯えたり更なる願望精神を駆り立てたりして苦しめられている。総ては自己自身の精神がもたらせる問題である。これを根元から解決して、本当の自己、安らぎと健全な誇りをもたらせる真の自己を確立することはできないものであろうか。さすれば、自分の知性や感情に翻弄されることもなく、常に安心した人生を持つことが出来るであろう。
 そのためには、知性や感性や自己とする世界から離れなければならない。一度徹底自分から抜け出て、総ての精神現象が一瞬の世界であることを徹見することである。知性や感情の見えない拘りの鎖を切り落とすことである。犬猫は成る程迷いも不安もなく、死を知らないが故に恐怖は無いだろう。けれども生きている自覚もなく、自分という存在観も無く、心豊な文化も文明も総て自然の四季のうつろぎの如く、日々の天候の如く、一切が眼に映る一時の縁に過ぎない。つまり生きている意義が全く無いと言うことである。人間に生まれたことがどれ程希有であり有難いかを知らなければならない。しかし、迷い苦しみ苦しめる不気味な存在は決して有難いものでもなく誇れる代物ではない。折角この世に生を受けさせて頂いたのだから、徹底真実を知って安心して生きたいものである。尊敬し合い愛し合って生きたいものである。それは自己を根元的に解決付けること以外にはないのである。自己の拘りから解放されたとき、その時から知性は叡知として輝くのだ。


  本当の世界を悟る

 迷い苦しむのは何時か? 捉われ拘るのはいつか? 喜び悲しむのはいつか? この単純な疑問の答えは、「今」であり「一瞬」の出来事なのである。永遠に「一瞬・今」の世界である。明日も、一年先も、一億年の先も、現れた時はこの「今・一瞬」の世界でしかない。では、苦しみや拘りから救われるのはいつか? 解決するのはいつか? この答えもやはり「今」でしかない。
 だから「今」は永遠であり、始まりもなく終わりも無い絶対な世界であることが解るであろう。さて、「今」でないものがあるか? 見るもの、聞くもの、喋る時、思う時、寒いと感ずる時、空腹、不平、不満、総て「今」の出来事であり「縁」のもの、関係性の現象に過ぎない。この現象を認めると横に並べることとなり、無限大となり限りなく関係がややこしくなってしまう。つまり捕われて意識の世界、概念の世界となり、じっさいの世界から遊離し、確かな何物もない空しい迷いの中で生活しているということだ。又、総ての現象は、無常と言う流転によって起こっている。無常とは「今」の働きであり、宇宙の命である。総ては「今」の流転の綾模様でしかない。言い換えると、人間を含めた宇宙総ての生命現象の営みの姿が「今」の様子なのである。この絶対な「今」は純粋にして単純の極である。それが「今、その様に只ある」ということである。どんな事であっても「今・只かくの如く在る」世界でしかない。「今」とは前後が一切無い世界だと言うことである。この世界を彼岸とも涅槃とも言い、それを自覚した消息を悟りと言う。
 この前後の無い、「それだけ・その物」の世界を無心とも言う。知性的なもの、理屈や拘りが一切無い純粋な世界である。だから、悟るには「今・その事のみ」、端的になり単純一元化すればよい。早い話が「今」に徹すればよい。「只」あれば自ずから「今」になっている。事実として次の一瞬には無くなっている。これが「只」の世界であり絶対性である。有って無いのが「今」である。「只」ある、これを脱落とも解脱とも言う。執着の余地も対立の相手もない無い世界が仏の世界であり絶対平和なのだ。悟るにはとにかく「今」になり切ればよいということである。
 なり切るとは「そのもの」に一心不乱に打ち込み、そして我を忘れ切ることである。すると心そのものが自然に溶けて落ちる。それが解脱であり脱落である。それを得る修行が坐禅である。坐禅はただ坐禅である。これほど端的な法はない。どこにも理屈や拘りが無い。総てを超越した独立独歩の世界である。要は坐禅に成り切ることである。成り切って自己を完全に忘却し切ると、観念の連続する癖が破れて、拘る元が消滅し、一瞬の世界が現成する。一瞬は一瞬でしかなく、有って無い「空」の世界であることがはっきりする。この自覚の一大事因縁を悟り言うのである。
 要するに坐禅に成り切って坐禅を越えるのが要訣である。この消息が永遠の光明であり救いであり、仏の内容なのである。仏陀の精神であり復活である。誰もが既にそうである。この重大なる真理を仏法と言い、救いの道を仏道と言う。


  どの様にすれば悟れるか

 どのようにすれば悟れるか? それは拘るという心の癖を取り、真実の「今」に目覚めることである。どのようにすれば心の癖が取れるのか? 先ず、拡散し思念する癖を破ることである。癖を破るには癖に逆らう事である。逆らうとはどうすることか? 癖も一瞬の世界であるから、拡散する余地を与えないぎりぎりの一瞬に着目し続けることである。拡散・雑念が起る元に着眼し、そこをずっと見失わない努力である。とてもではないが、あっと言う間に雑念の世界へ落ちていて、そのようなことは絶対出来ないと思うであろう。
 そもそも種を植えてすぐに収穫できるものはただの一つも無い。原因がなければ結果も有るはずが無い。結果が出てくるには時節因縁が必要なのだ。努力という大地と、水や太陽や温度が必要であり、害虫から守り雑草を取って育てなければならない。これが原因であり因縁であって、やがて時節が来れば自然に実がなり、時節が来れば熟し、時節が来れば自然に落ちる。皆努力なくしては有り得ぬ事である。知性の拡大ではなく、精神現象が起こる根元の究明である。知性以前の世界を体得するのである。これが自己超越であり悟りである。
 修行でもなんでも要点がある。如何に早く、誰でも確実に、楽に目的を達成する方が良い。悟るためには、拡散を収め、今の瞬間に返ることであるから、そのために雑念を切り、瞬間への帰着努力を続けるしかない。それが坐禅当初の修行である。

(1)悟りを得るということは釈尊の精神を得る事であり、仏法を体得する事である。そのために心より清浄を願い、人類の誤れるを正し、皆の幸せを願う大きなこころに目覚めなければならない。そのために諸々の欲望を捨て、真実の道を得る大願心を神仏に誓い、祖師を深く尊崇敬愛し正師を求めることが第一である。
(2)正師に出会うことが出来たら、只教えのみを信じて、その通りをひたすら実行することである。
(3)鮮明に瞬間を守り、雑念を払い、今を守る事を第一にするのである。
(4)偏り緊張を防ぎ、身心の流れを良くすることである。そのためには一息するごとに体を左右に捻る事である。すると自動的に雑念は切られ、眠気を避け、体の健全な流れが得られる。
(5)これを継続し、一呼吸に成り切り成り切り、雑念を切っては一呼吸に戻ることである。
(6)やがて拡散が治り、雑念が出ても着いて行かず放っておけるようになる。
(7)やがて概念のない念、前後のない念が手に入る。平等一元の安らかな世界が現れてくる。後は徹するだけである。本当の修行は、即今底のみ。ただ瞬間々々のみ。
(8)本当にそのものに徹し無我へと突入する。空の体得である。涅槃であり悟りである。本当の今であり、過去が脱落し総ての拘りが起らない世界となる。
(9)これより悟後の修行である。悟りはそのまま巨大な信念となり力となって、その事が面前にはだかるから本当の自由ではない。悟りをも捨てる修行である。
(10)悟りも法も落ちて大成する。大悟である。大真理は真理とすべきものもなく又真理で無いものもない。ここに於いて大恩教主釈迦牟尼仏と同境界となり、天上天下唯我独尊となって世界を照し、命の深遠悠久に任せて堂々と生死を楽しみ、限りない自信と安住力をもって人を救い世界を救っていかなければならない。


  終わりに

 我々は7、80年の限られた人生である。形あるものは必ず滅するのが宇宙の掟である。科学も技術も経済も、そしてイデオロギーも宗教も芸術も大切ではある。
 しかし、最も大切な事は、常に自己自身を高める努力心であり向上心である。限りなく自己を捨てることである。そのことが絶対愛に、絶対真に、絶対美や絶対善になる道である。
 真実の努力には必ず素晴らしい境地がある。原因があれば必ず結果が伴うからだ。そしてそれ自体が自己を救済し尽くしていることに気づくであろう。
 愛は愛に通じ、真実は真実を育み、心は心に通じていく。それが道だからである。だから道のために道を修して居ればよいのである。
 家庭を健全にし、社会を浄化して将来に夢を託し、みんなの幸せを祈り信じたい。
 人間はやはり真実を最も愛し大切にしている生物であり、理想とともに惨悔するという改めることが容易に出来る本来があるがゆえに、限りなく尊い存在ではなかろうかと確信している。
 真心を何よりも慈しみたいものである。全世界の人々の。真実の平和を。