参禅には正しい方法による努力が決め手です。別の言い方で説かれて気がつく事がありますので、山僧の提唱と参照しながら弁道に便宜を得て下さい。この一文はとてもよく説かれています。                      井上希道  合掌                                                 


       発心寺 寺報   第二十五号

                                  原田雪渓老師 

 永平寺開山道元禅師が二十八歳の時にお示しになった、『学道用心集』に、第六「参禅に知るべき事」という項目があります。参禅の上で知らなければならない重要なことが述べられていますが、今ではここに述べられているようなことはすっかり行われなくなりました。幸いにして、当僧堂では、長いあいだ摂心を続けながら、いわゆる選仏場にかなうように得法することを目標に弁道を重ねて来ておりますが、参学(参禅)というのは自分自身に参ずることで、己見をもって仏道を見てはいけないということが述べられております。「右参禅学道は一生の大事なり」という出だしの「一生の大事」というのは、これからではありません。今のことです。今を承当(うけがう)して、人とは何か、自分とは何かということを自分自身で明確にすることが、根本でなくてはなりません。このご文書の中でいちばん大切なことは、「心を整える」ということです。心を整えるのは非常に難しいとお示しですが、人の考えと違った意味で整えることを説明しておられます。この摂心中も大勢の方が一生懸命坐っていらっしゃいますが、数息観や随息観などの功夫をしておられても、しばらくは続くけれど、ほんの僅かの油断のために、ふと心を奪われてしまうことがあります。そういう時に、元に戻そうと意識すればするほど、「整えなければならない」という想念にとられてしまいます。
 一般に、坐禅をすれば心が自然に整うだろうと考えられていますが、実はそうではありません。何をしていても、どんな状態でも、私たちは二つの考えを一つの意識の中に入れることはできません。そのぐらい、心というのは必ず一つひとつに整っています。それを敢えて「整えなさい」という言葉を聞きますと、「整えなければならない」という自分の考えを往々にして起こしてしまうわけです。このような意識の移り変わりそのものが整った様子の連続で、乱れているものは何もありません。わからない、わかる、中途半端だというようなことでも、全部きっちりと決まって、自分自身でちゃんと承当できています。それを、「こんなことじゃなかろう、こうでなきゃいけないだろう」と思うのは自分自身の疑煩悩ですが、疑煩悩もまた、きちんと整った一つの状態としてあるわけです。
 しかし、不明なうちはほとんどの人が道を求めてむやみに一所懸命になります。それは迷いを嫌うからです。「迷いは悪くて、道はわからないけれども正しいもの」という思い込みがあるため、迷いを離そう、離そうとして、実は迷いも正法であるということを考えることができないからですが、これはやむを得ません。そこで、このご文書でも、「先に道を得た人に、よく尋ねなさい」ということが様々な表現を使って述べられているわけです。
 参禅を始めたら、従来のものの見方、考え方をやめて、目前のことを何でもただあるがままに、自分自身でなるほどと素直に頷く(只管)ことです。自分の働きをやめさえすれば、あとは法の働きだけ、「坐禅は坐禅なり」ということが自分で頷ける状態に必ずなります。それまで功をあせらずにお坐りになることです。しかも修行は道場でなければできないということではありません。これまで述べたような様子で生活なさっていけば、必ず葛藤の渦巻く自分の場所が道場に変わります。法らしいこと、修行らしいこと、坐禅の功夫らしいことは一切抜きにして、自分が今やらなければならないことに正直に打ち込んでいくこと。これが「一生参学の大事」で、どんな環境でも相続できていく。それが、仏道の道です。自分がひとつ決めて、やっていこうという意志さえ堅固ならば、どこでも修行の道場とすることができますので、どうぞこのご文書を座右に置いて務めていただきたいと思います。