エネルギー問題への提言

少林窟道場五世・海蔵寺住職

井上希道



この提言は、去る5年前(1955年 4月)の京都フォーラム・将来世代国際学識者フォーラムの、第43回「永続性を求めて−将来世代のためのエネルギー作り」会議の、総括として、老師が述べられました。



総括

北は北海道から南は九州まで、エネルギー問題に関する第一人者の方々にお集りいただき、二日間に渡って熱いご討議を賜りましたこと、心から感謝御礼申し上げます。
私は全くの門外漢なために、初めはよくなじめず、自分がこれまで坐禅修行を通して追究解明してきた人間の本質的なこととが、同一テーマとしてなかなか結び着きませんでした。しかし、二日目に入り後半になるに従いまして、エネルギーの問題は、人類の永遠の課題である教育と同じ程重大な課題であることに気付かされました。人類の恒久的存続のためにはどうしても解決をつけていかなければならない問題、一歩も退くことのできない問題として、先生方のたゆまぬご研究が力強くそれに近づいていっていることを実感させていただき、未来に光を見た思いが致しました。ここに安堵の感を覚えましたことを心から感謝致しております。
エネルギーには単純に言って二局面があるようです。供給する側とそれを使用する側です。修行や教育でいいますと、教える側と教わる側があるように。作る側と使う側とは、いつも一つラインでの前後関係性で成り立っているようです。その相互関係は、消費に対する不足への対応として、作る側が技術開発をして効率よく生産するという構図ではないでしょうか。進歩が早ければ早いほど、低コストであればあるほど、それが進めば進むほど、消費の側、使う側はなし崩しにその恩恵と感謝を忘れ、有限の危機を忘れ未来への責任と思い遣りをも忘れ、消費することの重大性を忘却して、個の利便性をひたすら進めていくものです。
人間の精神構造には物事に携わっていく順序としての段階があります。慣れるにしたがって中間をどんどん省いていくようになっています。その様に作用する回路が構造化して、殆ど本能化していくのです。生の心ばかりを扱っている私には、こうした人間の心の様子がとてもよく見えるのです。この単純化への構造を合理化と称していますが、本能化し動物化していくに従って一方に於いては無知性化し人間性不在要素を促進しているのです。これは私達人間自身が本来的に持っている指向性です。もっと言えば、生きとし生ける者は、自らを安全に守り児孫を繁栄し継続するという生命本来の使命に由来しているのでいす。より快適に、より便利で楽であることを求めるように仕組まれている存在なのです。ですから、便利になり単純化への道を極めれば極めるほど、消費のことを心では多少でも思いながらも、実際には無知性化が進むにつれて心地よく楽なほうに流れていくのも、運命的なほど自然なのです。つまり、使う側の一人ひとりの心が、効率よく気持ちよく人生をさせてくれる事が遙かに感情を満足させ納得させてしまうのです。大切にしなければならないという人間的知性的判断よりも、無知性化による感情優先の精神構造が促進していく限り、この大切なエネルギー問題は真実の意味での解決は無いのです。
この事は単にエネルギー問題に限らず、資源も環境も平和の問題も、社会の諸問題なかんずく教育問題も、悉くここから始まり、ここに尽きると言う重大な本質的根源的解決点なのです。ですからここに急を要することは、政治も教育も文化も経済も、あるいは思想もマスコミも、常に人間の根元である心に立脚した発想であり方向性を確立すべきなのです。即ち、個の幸せが全体の幸せに、全体はそのまま個の幸せになる仕組みを問い続けるとすれば、それはやはり精神の基本的自律と自立を抜きにしては有り得ないことです。取りも直さずそれは全て教育に掛かっていると言うことです。
個の確立成長を促し、人間としての徳性を育て、道徳を培わないかぎり、万事いたちごっこが延々と続き、世代間断絶の度合いが深まるにつれて退廃化は止まることがないのです。
世の中を大騒ぎさせたオウム真理教の問題等も、単に心の問題に過ぎないのです。勉強、勉強で点数をとるための知的刺激ばかりを加えて育てた人間が、理想や使命感を抱く筈はないのです。何となれば、現実を把握する基礎能力が育てられてないからです。エネルギーを始め将来の末期的な地球の様子や、人類の方向性などを真剣に考え、現状を深く洞察し、それを解決するための思索考察する時間も動機も与えていないからです。理想と徳性に通ずる知的能力が無ければ、その精神構造は本能と欲望を達成するために作用する、極めて劣悪状態であって当然です。
健全な青年が世の中に出てみましても、地球規模で進んでいる技術革新は、人の手を極限的に削除するに到たり、結局は社会全体が空洞化していて就職をする先もない有様です。こうした現実に直面した途端、生きる希望さえ失うでしょう。教師への希望があっても少子化現象によってその席も無い。苛立ちと不安と不満は、大変危険なエネルギーとなることを誰も承知しているはずです。ですからこの世代の危険さは時代により社会によって形成されたと言うことがよくわかります。こうした危険な精神構造ともなり社会現象にもなっている精神の改革浄化なくしては、エネルギー等の諸問題をいくら技術的に開発してみたところで、根本解決にならないことは前述の通りです。生きるという生命の営み自体に拘わっているからです。
私共の禅修行は何を追求しているかといいますと、人間は生まれてから死ぬまで、自己責任に於いて生きる、その生き様の本を追究しているのです。絶対生命を求めることです。道元禅師は「生を明きらめ死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり」と申されました。自己自身を本当に知れ、と言うことです。すると「知足の者は貧しといえども而も富めり。不知足の者は富めりといえども而も貧し」の確固たる人生観が確立するのです。釈尊のお言葉ですから間違いはありません。自分の世界であるこの「今」を真実に生きるとき、生命の絶対性に気付き、感謝と満足の躍動した人生が出現するのです。「知足」を得た時、本当の自己確立です。
さればエネルギー問題は本より、エイズ・麻薬・資源・環境・教育・諸々の紛争・臓器移植・貧富の格差・人権差別・福祉等々、社会問題は皆個の段階で解決です。任に当たった為政者指導者は、率先垂範して事に当たるために、極めて住み良い社会となるのです。これからは知性と欲望による自然収奪の文明技術的消費時代から、応用活性型自然循環徳性モードを目指すべきなのです。
この生きる確かな心情を一人ひとりが確立しない限りは、より便利で心地よいものへの流れは止められないのです。結局は一人ひとりの精神から起こってくる問題であり、究極的には精神の健全化をもたらさない限り、将来世代の健全性は望めないことです。これだけは間違いない自然の原則です。
先生方に乞い願うところは、エネルギーの研究と技術開発に全力を投じていただかなくてはならないのですが、例え理想の永久エネルギーを実用化したとして、それに依って生活する人間の営みは変わらないが故に、物依存精神は安心して消費する無制限消費精神となることを、深く恐れをいだいて研究に臨んでいただきたいのです。
それで物や技術の開発に先んじて、どうしても精神の健全性を育まねばならないのです。これはあらゆる教育・文化より優先すべき事です。そうすれば本当に地球の諸問題を真剣に考え、あの馬鹿げた殺戮にしか使わない巨大な兵器も自然に無用となるのです。これはそのまま我々の地球が健全化し永続化することではないでしょうか。
とにかく私達の人生は八、九十年しかない限りある時間の上で、存在観を確かめながら生きる精神的存在です。その生活や生き方の質が永遠の問題なのです。物による質は、社会が豊かになれば当然全体が向上するものです。ですから私達は物に質を依存する必要はないと言うことです。物に捕らわれ遣われるのではなく、既に今、物に充分満たされている文明的存在であることを自覚すべきなのです。そしてそこから自然に発露する満足感と感謝と真心の精神で、人も時間も物も大切にして、粗末にしない生き方を原則とするのです。そして、永遠にこの原則を変質させないように努力すべきなのです。
従って、生まれたときから人間としての健全な生き方を、社会の責任において、家庭の責任において、教育の基本理念として育ててこそ、個の幸せと同時に全体の幸せを可能にするのです。そういう心の環境を破壊しないように生きることです。
先進諸国に共通している問題として、特にアメリカ、イギリス、フランス、西ドイツではなぜエイズや麻薬が蔓延し、殺人事件の頻度が高いのかというと、一人ひとりの精神が荒廃したため、してはいけない事が守れないからであり、守るべきことが守れない、ただそれだけの事です。人間として、するかしないかの健全な判断力とその実行力が基本です、がその両方が不健全と言うことです。
世は文明絶対時代を迎えて大切な心を失いました。その付けが人類を脅かすところまでになったのです。技術は大切です。しかし、それに精緻を尽くしている内に、自然に絶対視し局所的視点になってしまうものです。人間としての健全なる信条を確立していない限り、人間の精神構造は有って無いような物ですから、至って簡単に一面化し単眼になるのです。そこから議論のための議論となり、いたずらに技術開発のみに溺れていくのです。その結果、何処まで行っても切りがない文明追究症候群に陥っているのです。
技術開発は当然局所的解決はするでしょう。五十年先に永久エネルギーでその種の問題を解決をした時には、多分このままですと全体の精神は復帰不能までに退廃しているでしょう。私達の将来の社会は駄目になっているという危険の方が高いのです。
それでもっともっと人間そのものに問題の根元を見出していただいて、技術の前に哲学ありき、哲学の前に人間ありきで物事を進めていただきたいのです。人間にとって今や文明は酸素であり技術は血液なのです。そして精神は動脈であり神経なのです。本へ帰ることが出来ない限り、文明を健全に管理し有益に活用すべきです。文明の絶対管理は、健全な精神にのみあるのです。全ては人間が母体なのです。こういうことを今日深く感じさせていただきました。
私はただ人間の心を極め、今は伝えていく禅の修行者です。心を極め、そして間違いなく本質を伝えるということは永遠の課題でもあるのです。同時に先生方も永遠の課題を掲げていらっしゃる筈です。その接点はいつでも物と人、科学・技術と精神から始まっているので、本質的立脚点に立てば、決して相反するものではないのです。いつも一体でなくてはならない事柄です。
今後一層、研究開発に専念されることでしょうが、人間にとって真の幸せとは如何にあるべきかを真摯に鑑みていただき、そのために必要欠くべからざる問題を摘出されて、その上で技術の開発をしていただければ、本当に永遠の文明に達することができると思います。
窓の外を見てみますと、毎年のごとく新芽がふき、本当にそれだけで心が洗われます。矢崎会長がこの度イスラエルから帰られて、日本の京都を歩いたら本当に天国のようだ、と表現されました。
私達の日本が如何に恵まれているかを知るのも、心の複眼作用です。それは偏りのない健全な心の状態に於いて働くものです。しかしどんどん退廃し人間性が枯渇していることは、エネルギー問題よりもっと深刻で危険な現象であります。
他者存在の悲惨な状況に対して魂が震えていたたまれなくなったり、未来への責任感や暖かい思い遣りなどで自律心が疼くようになるのは、決して科学や技術などの外部条件で培われるものでもなく補填できる事柄でもありません。
全ての科学・技術は、原則として現在の問題解決を通して将来をより健全にすることでなくてはなりません。そのためには常に社会と人間の将来、個の怠惰性精神と文明環境との関係性を総合的にお考え頂いて、心の健全教育無きままの危険性を自覚して研究開発をしていただきたいものです。
常に総合的に将来世代から眺めていただいたお立場で研究していただくことが一番健康的だと思っております。
本当に長時間にわたりまして、諸先生方にはさぞかしお疲れのことと思います。今後ともに地球の将来の為に、我々人類の子孫の為に、よろしくお願いを申しあげます。ありがとうございました。